善なるは己

かく言う私も偽善者に過ぎなかった

 私は酷い人間だと改めて思う。まだ熱があるからと言って何かしら相談したい面で寄る仙蔵を避けて、布団に潜り込む。夜が明ければ仙蔵よりも先に起きて身支度を整えて室を出る。「お休み」と「おはよう」の挨拶だけで、二人切りでの会話という会話はしていない。あの夜より三日目の朝を迎えた私は、仙蔵が顔を洗いに出ている隙を狙って文を認める事にした。短時間で済まさねばならないので、墨の用意は不十分に。けれど、字が読める程度に私は墨に筆先を浸した。





「ああ、仙蔵、戻ったか」

 昼食を終え戻って来た仙蔵に、朝認めた文を手渡す。正面に向き合うのが久々に思えるのは、それ程に私は仙蔵を意識して避けていたのだからかもしれない。さり気無さを装っては「先程、お前宛の文を預かった」と口にして、仙蔵と入れ違いに出て行こうとする。「栢丸」と背に仙蔵の澄んだ声が掛かってきて、私は小首を傾げ僅かに振り向いた。

「ありがとう」
「ああ」
「待て、栢丸」
「……何だよ。どうした?」

 出来れば早々に離れたい。仙蔵の面を――視線を受け止めるのがとても辛くて、針で胸を何度と刺されているような気分だ。ちゃんと普段通りに苦笑顔になっているだろうか。ぎこちなくないだろうか。そんな心配が募る。

「今日の夜、相談したい事があるんだが――」
「……悪いな。今日の夜は伊作に呼ばれているんだ。今もそう。これから行かねばならんくて。あいつ、私が怪我して静養しているのを良い事にあれこれ保健委員の仕事を押し付けてきてな」
「そうか。まあいいさ。時間のある時で構わん。俺の相談に付き合ってくれ」
「ああ、悪いな。暇見付けたら声掛けるから」

 そうして、私はきっと声を掛けない。伸ばして伸ばして、仙蔵から離れようとするんだ。何て酷い人間なのだろう。友人の振りをして。これじゃあ伊作の事を罵れない。私も――ううん、私こそが偽善者だ。都合良く、今のままで居たいと思う反面、気付いて欲しいと思う。けれど、気付かれたくない。これ以上勝手ながらも傷付きたくないと思って仙蔵を避けて、でもだからといって仙蔵に嫌われたくないから何気無さを装って。一体、私は何がしたいのだろう。
 こつんこつんと床を杖で支え叩きながら、私は伊作が待つ菜園へと向かった。伊作に呼ばれているのは本当の事だ。今日の夜――というのは咄嗟に作った話だけれど、伊作に言えば笑顔で「そういう事にしてあげる」と頷くのだろう。伊作に弱味を握られてからというのも私は伊作の笑顔が偽りのものに見えて仕方が無い。今まで優しかった伊作の笑みが一転して、何かしら含みのある笑みにしか見えないのだ。それもこれも、一年生の頃より私を疑って今の今まで何食わぬ顔で接されてきたからかもしれない。庭に下りて蔵の脇を通り厠の手前を横切ると、薬草に囲まれる伊作の背を見付けた。私の姿を見付けては昔ながらの優しい笑顔で手を振りながら迎えてくれる。けれど、その笑顔が何だか憎たらしい。

「どう、具合は」
「良好でなければ立ち歩かない」
「仙蔵が近くに居たら無理してでも立ち歩くでしょ?」
「――っ」
「そんな顔しないでよ。僕は唯、何時も通りに君と居たいんだから」

 睨み見下ろせば苦笑を零して私の苛立ちを受け流す。何処かしら情けなくて、不運で、優しくて。でも、いざという時は逞しく頼もしくも思える友人であるけれど、それでもどうしようもないなあと苦笑を零してしまいたくなる程に不運な伊作――であるというのに。何故、私は伊作の気配に――私が女で、みつねであると気付かれていた事に気が付かなかったのだろう。悔しい。凄く悔しい。気付かれていないと思っていた。男として接してくれていたから、伊作に気付かれていたなんて思いもしなかった。

「……伊作なんて大嫌いだ」
「それをまだ言うのかい?」
「言う。言わずにはいられない」
「僕なりの優しさだというのに。一生懸命に男を演じる姿を見せられちゃ、君、女の子だよね? だなんて言えないじゃないか」

 本当は――伊作の優しさは分かっている。唯、悔しくて素直に認められないだけで、本当は感謝している。心の奥底では本当に感謝しているんだ。けれど、どうしても素直になれない。本当は影で嘲笑っているんじゃないだろうかとか、昨日の伊作の脅し文句と何かしら含まれた笑みを見せられては疑う心も晴れる事は無くて。今の今まで黙っていてくれた優しさとか、配慮とか、よくよくと考えれば私を見守ってくれていたのだという事に気付かされるのだけれど。

「こんな事なら卒業まで黙っていてくれていた方が良かった」
「僕も出来る事なら黙っていたかったんだけどね。元からそのつもりでもあったし」
「伊作は」
「うん」
「伊作は……優しいけど、凄く意地悪だ」
「……うん。好きな子にはとことん意地悪するからね、僕は」

 伊作の笑顔が気に食わない。見ているととても苛々する。伊作に負けた気がして――というよりも既に簪を一度盗まれた時点で負けているのだけれど、悔しくて、事実を認めたくなくて。

「伊作の莫迦。腹黒。偽善者。不運。おたんこなす」
「お、おたんこなすじゃないよ! 何処でそんな言葉覚えたの!?」
「茶屋」
「そうだ、前から気になって聞こうと思っていたんだ。四年生や五年生の頃、長次達と町に女を買いに出た時どうやって――」
「口裏合わせしたりいろいろと手口はあるだろうが」

 ふん。とそっぽを向けば「こっちを向きなさい」と土塗れの伊作の手が私の顔を掴んでくる。容赦無い力強さに私は杖を落として伊作の手に抗った。男の人の手だから掴んでどうこう出来る程のものじゃないけれど、掴まずには居られない程の痛みが私の頬に掛かる。

「い、いたっ、痛いっ、痛いって!」
「僕と二人で居る時ぐらい女の子らしくしなさい」
「誰に見られてるかも分からないというのに、そんな事出来るわけがないじゃないか! 莫迦伊作!」

 女の子らしくしろと言う割には扱いが女の子にするものじゃない気がするんだけど。

「じゃあ、仙蔵に言うからね。良いんだね。ああ、そう。良いんだ。そうか、そうか」
「ぐっ……」

 嬉しそうな伊作の笑顔が私を見下ろしてくる。がっしりと固定された伊作の手に添える私の手は力を無くしてしまって。歯の奥をぎりりと鳴らしながら、私は伊作へと悪態吐いた。

「伊作なんか大嫌いだ」
「僕は大好きだよ、みつね」