いの兆し

見慣れた筈のその顔が見れなくなるなんて

 顔が熱い。ううん、顔だけじゃない、身体全体が熱い。涼しい夜になったというのに、私はこの場が暑いのか、それとも私が熱いのか分からない程、とても焦っていた。今までこんな事、なかった。顔はきっと赤いだろうし、胸はばくばくと脈打って煩く聴こえる。仙蔵の視線から逃れたくて、顔を見られたくなくて、でも、離れたくなくて。離れたいと思う。とても、矛盾しているこの気持ち。仙蔵の声が私の耳を掠める度に泣きそうになった。留三郎や長次と違うよく分からない感覚に、私は逃げ出したくなった。

「お、お父様と、兵太夫に、持っていってくださいませんかっ」
「人にものを頼む時は目を見て言うものではないか?」
「せ、仙蔵さんが、離してくださらないから、見えません」

 額に掛かる仙蔵の吐息に思わず目を瞑ってしまう。平衡感覚が掴めない私の足はしっかり立っているのかも怪しいもので、仙蔵の腕に縋ったまま、距離を取ろうとした。でも、仙蔵は何処か楽しげに私の腰に手を回して離そうとしない。離してよ、莫迦。嫌だ、嫌だ。恥ずかしいのに。何でこんなにも仙蔵に恥ずかしい思いをしなければならないのだろう。何で、どうして。どうして私は仙蔵の顔をまともに見れないの。

「お、お願いですから」

 ぐっと唇を引き締めて、仙蔵を睨み上げる。あんまり顔を見られたくないから、俯きがちだったけれど。普段と変わらない仙蔵が憎たらしい。私がこんなにも仙蔵に翻弄されるなんて思いもしなかった。何だか悔しくて、でもやっぱり恥ずかしくて、直ぐに俯いてしまう。

「……まあ、今日はそれで良しとしよう」
「仙蔵さんの莫迦っ」
「何か言ったか? 私が、莫迦……とか」
「っ――莫迦ですっ、莫迦、莫迦、離してくださいっ!」

 塹壕があれば飛び込みたい。蛸壺に顔を埋めたい。落とし穴でも良いから逃げ込みたかった。くつくつと笑う仙蔵により一層抱き締められて、私は仙蔵の肩に額を押し遣られた。ぎゅっと抱き締められて、温かいけれどとても熱くて、汗が滲み出てくる。

「酒と肴を持って来てくれ。私は留三郎を叩き起こしてそこのを持って行く」

 ゆっくりと離れた仙蔵は俯く私の顔を窺う様に首を傾げて優しい声で囁いてくる。私の顔は絶対に真っ赤だ。熱くて熱くて、仙蔵に見られたくない。だから、さらりと流れる髪に面を隠して、私は仙蔵の袖から手を離した。唇が不安定に震える。手や足にも力を入れて動揺を抑え様とするけれど、どうしても上手くいかない。胸が、熱くて。ちくちく痛くて。両の手で押さえるけれど、どうしてもどくどく早鳴って、でも、嫌じゃなくて。

「起きろ、食満三郎。この阿呆め」

 留三郎の隣に立膝着いて屈み額を何度と平手打ちする仙蔵の背を見遣ると、私の胸はまたとくんと跳ね上がった。仙蔵の抱擁に、仙蔵の接吻に、私はかなり動揺してしまっている。ふ、不本意だ。そうだ、これは普通の女の子なら普通に思う事だ。大川学園の殆んどのくノたまの子を貶めた実績があるあの仙蔵なのだから、女である私もその毒牙にちょっとだけ中てられたようなもの。恐ろしいな、仙蔵の落とし業。きっと、少しすれば落ち着く筈。私は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。そして、ゆっくりと一歩一歩酒棚へと歩み出す。

「あ、あれ……俺は」
「俺のみつねに手を出した罪は重いぞ、食満三郎」
「お、俺は留三郎だ!」
「暫くは食満三郎と呼んでやる。さあ、起きろ。そして、俺とみつねに謝れ」
「謝らねーよ!」

 二人の言い合いに私は無言で背を向けた。酒樽に柄杓を入れ、酒を急須へ移す。私の背に留三郎と仙蔵の声が掛かってきたけれど、私は何を言われたのか分からず仕舞いだった。耳に入ったけれど、頭に残らなかった。意識を向ける事が出来なかった。気付けば二人とも居なくて、女中の一人が台所に入ってきた。

「まあ、お嬢様。そのお顔、どうなさったのです?」
「え?」
「頬が真っ赤でございますよ?」
「ひええぇっ!?」

 思わず両の手を頬に宛がって、熱を確かめる。確かに熱い。くたりとその場でしゃがむと女中が慌てて寄り添ってくれた。よしよしと腕を擦られて、私は何がどうしたのか、どうすれば良いのか、何がしたいのか分からなくて、女中の袖を握って優しいその手に縋ってしまった。





 落ち着きを取り戻した私は酒と肴を乗せた盆を手に持って、お父様達が待つ室へ向かった。女中の持つ灯りの後を辿って縁側を進むと、賑やかな声に近付く。

「みつね、遅かったね」

 少しばかり頬を酒気に染めた伊作が穏やかな面で見上げてきた。「ええ、一寸」と短い言葉を返した私は、その伊作の笑みにほっと胸を撫で下ろした。伊作の隣には頬を腫らした留三郎が切れ長の目をより一層鋭くさせて、酒を呷っていた。目が合った途端、留三郎が気不味い顔をして視線を伏せる。

「みつね、ちょっと屈んで」
「えっ――あ」

 盆を持ったままの私の袖を掴み引く伊作に頬を取られて、伊作の怖い顔と向き合わされた。え、何で伊作は怒ってるの。

「目が少し腫れてる。泣いた?」
「え゛」
「女の子なんだから、目を擦っちゃ駄目だとあれほど……」
「え……あれほど?」
「あ、いや……駄目だよ、ちゃんと冷やさないと」

 誰かと間違えたのだろうか。結構飲んでいるみたいだし。手に持っていた盆をその場に置いて、伊作の親指の腹に目元を優しく撫でられていると、背中に何かが引っ付いてきた。兵太夫かなと思ったのも束の間。兵太夫にしては一寸――というかかなり大きくて、お腹の辺りに回された逞しい腕に私は息を呑んだ。

「みつね……柔らかくて良い匂いするな」
「こ、小平太、さん!?」
「私も酒が飲みたいんだが、飲ませてくれないのだ。なあ、みつね、私に酒を注いでくれ」

 注いでくれという割には私に張り付いて飲みたいという態度では無い気がするのだけど。私の肩辺りに額を押し遣って左に擦り着いては右に擦り着いてと、動物の様に甘えてくる。頭を叩いて剥がしたいものだけど、今は私は武家の娘。そこはぐっと我慢して、よしよしと頭を撫でてやる。途端、痛々しい大きな音を立てて、小平太は私から離れた。ふと見上げれば仙蔵の顔があって。

「俺のみつねに触るな!」
「わ、私――わたくしは仙蔵さんのものなんかじゃありませんっ!」

 反射的に叫んでいた。