掴む手

初めて触れたその唇はとても柔らかいものだった

 みつねが遅い。俺は酒注がれる器を一つ呷ってから静かに置き、立ち上がった。小平太と文次郎に遊ばれている兵太夫の目を盗み、そっと室を出ると俺はみつねが向かった筈の台所へと向かう。俺達は既に夕餉を済ませ、今はじ様の酒付き合いをしていた。肴も酒も足りなくなってきたから丁度良いだろう。伊作も長次もじ様の話に頷き酒を注がれ、ご機嫌取りに必死の様だ。俺が取りに行けば良い。あくまで序でにだが。
 縁側に出ると少し風が出てきたのか、俺の首筋を軽く撫でてきた。日差しある昼間はまだ暑さを残すものの、夜は少しばかり冷えを感じる。暗い夜を明るく照らす月の光は仄かに俺を照らし、先を導いた。

「お前、可愛過ぎだっ」
「せ、ん――っ」

 台所に差し掛かる頃に聴こえてきた声に、俺は焦った。留三郎の声と、みつねの声に聴き違う事は無い。

「みつね!」
「んのっ、離してって言ってるでしょーがー!」

 駆け寄ろうと台所へ飛び込めば、俺の目前で留三郎がみつねに頭突きを食らわされていた。だが、その前に留三郎。お前は俺のみつねに何をしているのだ。みつねを抱き締めて、頭突きされても離さない。俺が剥がそうと手を伸ばすものの、瞬間、華奢なみつねに似つかわしくない体術が留三郎に振舞われた。懐に拳を入れられたのだろう。唸る声を上げて蹲る留三郎の衿を掴んで、みつねは綺麗な一本背負いを繰り出した。

「つ、次、やったら、本当に絞め殺してやるっ」
「みつね」
「せ、んぞう……さん」
「どうしたんだ、これは。何があった」

 よく見ればみつねの頬に濡れた跡がある。目元が赤く、潤んだ瞳に俺はみつねの言葉を待たずに抱き寄せた。袖掴むみつねの手が震えている。肩にそっと触れその頭を優しく撫でてやれば俺の名を呼びながら静かに泣き出した。一体、何をした、留三郎。伸びて気を失っている留三郎を見下ろし、俺は苛立つ。みつねの身をしっかりと抱き締め、その豊かな髪に頬を寄せると、俺はゆっくり息を吐き出した。此処でみつねに苛立ちを当ててしまい兼ねない。

「……落ち着いたか」
「はい……その、ごめんなさい」

 俺の胸は元よりみつねの為のものだ。うんと泣けば良い。だが、留三郎に何をされたのかは知りたい。俺の胸からようやくと顔を上げたみつねの目元を指先で撫で見遣ると、みつねは俺から逃れるように顔を背けた。控えめに伏せられている目蓋が二度、三度と瞬く様を俺は見逃さなかった。

「何されたのだ」
「……だ、抱き締められただけです」
「それだけではないのだろう」

 離れようとするみつねの腰を取って抱き寄せ、その俯く顎を捉え上へと向かせた。みつねの顎を取る俺の腕にみつねの両の手が制しに掛かるが、俺は構わず唇を寄せる。

「口吸われたのだな」
「っ」

 みつねと俺の視線が交わると途端、みつねが顔を逸らした。口を一文字に引き締めて、今にも泣きそうな顔を俯かせる。くノたまともあろう者が、他の男に簡単に唇を奪われおって。留三郎もだ。俺がみつねを好いていると知っていてしたのだな。日頃から栢丸の女装――乙女に惚れていると抜かしておきながら、俺の目を掻い潜ってみつねに手を出すなど。乙女を好いているというのは唯の口実だったのか。何時からだ。何時からみつねと留三郎は。

「仙蔵さん、痛いっ」
「……消毒する。動くな」
「消毒って――」

 みつねの頬を撫で滑る様に左顎を取り、俺へと面を向かせた。みつねの震える唇を塞げば、俺の唇に柔らかい感触が伝う。留三郎の事だ。感情のままにがっついたのだろう。最後に聞いた留三郎の声は乙女に見せるものにとても似ていた。乙女にみつねを重ねてたのだろうか。何にしても許し難い事に変わりない。後で締めてやらねば。だが、その前に俺はみつねのその留三郎に食われてしまったであろう唇を消毒する。くぐもるみつねの声が可愛らしく聴こえ、思わず歯の奥で笑ってしまった。苛立ちは今は抑え、出来るだけ優しく。みつねの柔らかい唇を舐め上げた。

「……みつね」

 そっと離れ名を囁くと、潤んだ瞳に俺が映っていた。真っ赤な顔で、だが、留三郎の時とは違う反応に、俺は微笑を零す。俺の腕の袖を掴むみつねはとても可愛らしいもので、留三郎が欲情するのも仕方が無いとさえ思えてきた。だが、許しはしない。

「お父上と兵太夫が腹を空かせて待っているぞ」
「……は、はい」
「何だ。名残惜しいのか?」
「ち、違いま――」
「口吸う際、泣きそうな顔で目を固く瞑っては、もっとしてくれと言っているようなものだぞ」
「仙蔵さんっ!」

 両の手を拳にして口元を隠す様に宛がい俯くそのみつねの様は明らかに俺を意識してのものだ。でなければ理由が付かない。

「私に惚れたか?」
「ほ、惚れてなんか、いませんっ!」

 釣れない言葉も、真っ赤な顔で視線を背けて言われてしまっては初々しく聞こえるもので。俺は胸内に燻っていた苛立ちが何時の間にか心地好い高鳴りに変じていた事に気付いた。