付く者気付かぬ者

知る者は黙らせ、知らぬ者には笑みを振舞う、それが武家の娘です

 右頬に親指を。左頬には人差し指と中指、そして薬指を添えて、力一杯抓み押す。唸り声を上げた留三郎に怒気を含んだ目で睨むと私はその留三郎の耳元にそっと「ばらしたら食満三郎って呼ぶからな」と脅し文句を一つ囁いて、武家の娘として恥じない微笑を浮かべた。
 この留三郎という男、私を見た瞬間に私が栢丸である事に勘付いたようで、口を滑らす前に私が封じた。何て勘の良い奴なのだろう。時折、町に乙女ではなく私本来の姿――みつねとして出歩いていたというのに。よくこの五年間と半年、気付かれなかったものだと思う。口が蛸になっている様は見ていて面白いものだけど、目の輝きが気味が悪い。

「顔見知りか?」
「留三郎とは町で会った事があるんですよ」

 さらりと言って退けると留三郎から手を離して面々を順々に見遣りゆっくりとお辞儀する。そして武家の娘らしく背筋を伸ばして朗らかに挨拶する。

「お疲れでしょう。お茶でも飲んで行ってください」

 不本意だけどお茶くらいは出してあげよう。そしてさっさと帰れ、莫迦共。兵太夫の手を握って私は面に微笑を貼り付けながら笹山家の門を潜った。





 笑わずには居られない。だが、顔に出せば俺も不審に思われてしまう。みつねの後に続きながら笹山家の敷地に足を踏み入れると、袖を引かれた。振り向けば、小平太が口を開けて呆けた顔で俺を見る。「どうした」と口にすれば「私、仙蔵に殺されるやもしれん」と訳の分からない事を俺に言う。みつねの家に着て、仙蔵に殺される――ああ、さては惚れたか。みつねも大変なものだ。俺達――といえども伊作は昔から懸想している娘がいると言っていたから違うだろうが――友と親しんでいた皆が揃いに揃ってみつねに何らかの想いを寄せているなど、みつねは大変だな。家に上がるようにと振り向き促してきたみつねを見詰める小平太の顔が赤く染まっていく。幾多の女を抱いてきた男であろうとも、気に入る女と惚れる女とではこうも違うものなのか。

「みつねは大川学園で変姿の術を使っているんだったよな」
「はい。そうですけれど、何か?」
「私と会った事はあるか?」

 小平太のぎこちない振る舞いに、俺は歯の奥で小さく笑ってしまった。口を閉ざしていたから漏れなかったものの、開いていたならばみつねに一睨みでもされそうだ。

「さあ、どうでしょう」

 どちらとも取れる言葉を口にして意地の悪い笑みを口端に乗せるみつねに、小平太の顔は真っ赤に染まり上がった。初な。仙蔵もこの様な感じだったのだろう。不機嫌そうな顔で草履を脱ぐ仙蔵に俺はふと想像した。

「わ、私に抱かれた事はあるか?」

 瞬間、小気味良い音が家に響き渡る。それも二つだ。音を発させたのは、小平太の頬を平手打ちした仙蔵と背を叩いた文次郎だ。女性に対して聞く話ではないだろう。相手が栢丸だと分かっていれば話は別だが。場違いな言葉は思っても口にするなと咎めの意味を込めて、俺も小平太の額を叩いた。

「これでもわたくしは武家の娘ですからね。あったら今頃、面も見せられないと思います」

 息の吐く音がした。それも、重苦しいものではなく、すっと溶けていくような落ち着きあるもの。俺の背後に居るのは伊作と留三郎だ。どちらかが漏らした息。恐らく、留三郎だろう。抱かれていない事を知って安堵でもしたのだろうな。留三郎はやはり気付いたか。まあ、分かる者には分かるだろう。嬉しそうな留三郎の顔を一瞥して、俺は紐解いた草履から手を離した。





 小平太の突拍子も無い言葉には驚いた。次いで出た栢丸――いや、みつねの言葉に僕はそっと息を吐いてしまった。安堵の息だ。良かった。まだ誰の者にもなっていない。
 まさか、仙蔵の懸想するみつねという娘が栢丸だったなんてね。門前で振り向いた顔を見た時、泣きそうになった。本当に、喉がちりちり痛み出して、来るんじゃなかったとさえ思えた。隣に居た留三郎も気付いたみたいで、焦った。でも、留三郎の口を片手で掴んで脅し上げた様を見たら、栢丸は仙蔵や文次郎に知られたくないのだと分かった。だから僕は何とか顔に出さない様に堪えた。栢丸が栢丸で居たいのなら、僕はそれに協力するまでだ。

「僕は善法寺伊作……って、知ってるよね、きっと」
「はい、勿論」
「という事は、学園内ですれ違う程度の事はしてるって事だよね」
「ええ、まあ」

 僕は君の事、知らない。栢丸は栢丸で、みつねはみつね。僕はそう思っているよ、と。みつねを安堵させてあげる。

「みつねって呼んでも良い? 僕の事は伊作で良いから」
「はい。伊作」
「ありがとう、みつね」

 草履を脱いで立ち上がると、仙蔵の鋭利な視線が僕を射抜く。怖いなあ。僕を一瞥した後、仙蔵はみつねの手首を引っ掴んで奥へ奥へと入って行く。一寸、面白くないけど、今は仕方が無い。僕はみつねとは初対面なのだから。仙蔵が栢丸だと知っていれば僕も黙ってはいなかったのだろうけど。

「……可愛いね」

 誰に言うでもなく、僕は呟いた。振り向いてきた長次には聞かれたようだけれど、僕は長次に無言で笑みを返す。本当に可愛い。普段、誰よりも雄々しいものだから、武家の娘として振舞う栢丸――いや、みつねはどんなものかと思っていたけれど、たおやかで綺麗な。でも、どこか可愛らしい。正直、みつねを前にした時、触れてみようかなとも思った。触れたらどんな反応をするのだろう。やっぱり、今は女の子の姿だから、女の子らしい可愛い反応を見せてくれるんじゃないだろうか。仙蔵が羨ましい。

「伊作、お前――」
「ああ、違うよ。本当に可愛いなあって思って。……僕には心に決めた人がいるから」

 小平太みたいに惚れたのかって聞きたかったんだよね。小平太の顔を見れば分かった。でもね、長次。僕は昔から惚れていたよ。多分、この場に居る誰よりも一番早くに彼女に――みつねに惚れていたんだ。