近付いた気配に、僕はうつ伏せた。枕下に忍ばせた針を人差し指と中指の間に持ち、身構える。すると、細い影がゆっくり入って来た。瞬間、留三郎が布団から上半身を跳ね起こした。月を背に陰る顔は窺えない。だけど、それが誰で、決して何時もの彼女ではないと、僕は知った。「どうしたんだ」と言う留三郎の声に答える事も無く、僕と留三郎との間に設けてある衝立迄真っ直ぐ来ると、彼女――栢丸は僕の方へと衝立に沿って寄って来た。衝立に背を預け座す栢丸の横顔が月の光に照らされて、面持ちがとても冷めている事に、僕は不安に駆られた。
「済まない。今日、一日、此処に泊めてくれ。そして、誰が来ても、私は此処には来ていないと答えてくれ。頼む」
疲れ切った顔。何時もの澄ました男気ある顔では無かった。何処か憂いて見えるその横顔に、留三郎が衝立に腕を置き、栢丸を見下ろしてきた。乙女、乙女と煩いあの留三郎でさえ、何かを感じ取ったみたいだ。
「栢丸、何かあったのか?」
「何も聞かないでくれるか、留三郎。私の頼みを聞いてくれるなら、乙女の声でお前の望むところを接吻してやるからさ」
「本当か!?」
「な、何言ってるんだ、栢丸!」
何時もの栢丸ではない。何時もの栢丸であるなら、力付くで留三郎を制してる筈だ。一体、何が遭ったのだろう。少し弱々しく見える栢丸を他所に、留三郎は栢丸の好条件に釣られてる。「分かった。じゃあ、こっち来いよ。俺がしっかり匿ってやる」と言う留三郎の言葉に栢丸は実に素っ気無い態度で「いや、遠慮する。伊作側の方が戸からは死角になって見えないだろうから、私はこっちに居る。良いよな、伊作」と僕に同意を求めてくるものだから、僕は渋々と頷く。僕が断れるわけがない。少し変な栢丸を放り出すわけにもいかないし、匿うにしても留三郎のところにだなんて置けない。
奥の方に蹲る様に身体を横にした栢丸を見遣って、僕は一つ息を吐いた。今日の栢丸は変だ。長次と町に行くと言っていた時も変だと思ったけれど、あの時、以上に変だ。留三郎も気を好くして腹に布団を掛け直し寝入ってしまった。少しは気遣えとか思ったけれど、留三郎は留三郎為りに気遣ったのかもしれない。栢丸が「聞くな」と言ったのだから、聞かないのが定石。深く詰めては機嫌を損なうと分かっているからこそ、何の気も無い振りをしたのだろう。半分は。もう半分は本当に気を好くして寝ただけな気がするな。そうでなければ、今頃、この僕に「場所を変われ!」と言っているに違いない。気付けば、留三郎の方から衝立越しに小さな寝息が聞こえてくる。寝入ってしまったようだ。無理も無いか。今日も用具委員会で修補していたのだから。
「栢丸」
「……うん」
「これ、敷いて」
何も敷かずに寝ようだなんて、痛いだろうに。僕は畳んで置いた自分の装束の上衣を栢丸へ差し出した。だけど、手で突っ返されてしまう。忍びの卵なのだから必要無いと言われてしまえばそれまでなのだけど、だからといって、僕の厚意を拒む理由も無い筈。何度と押しては押されと繰り返す。一向に姿勢を崩さない栢丸に、僕は少し苛立った。黙って置いて欲しいなら、せめて僕の厚意を受け取るべきだと思う。僕の機嫌次第で、誰か来たら栢丸を売り付けても良いのだから。留三郎は反対するだろうけれど、僕からしてみれば、留三郎が栢丸に協力して、何処にするかも分からない接吻をするよりも、断然良い。
そう思って、名を呼ぼうとした時、廊下に気配がした。すっと、栢丸の気配が薄まる。目の前に居るというのに、物の様に感じた。戸へと振り向けば、長次が立っていた。
「栢丸を見なかったか」
「……いや、見てないけど。何かあったの?」
「見てないなら良い」
早々に消える長次に、僕は嫌な予感がした。栢丸が目を赤らめたのは何時だ。長次と町へ行く時、確かに、艶本の買い付けなんて栢丸は好まないけれど、あそこまで気の乗らない顔はしない筈だ。それに、あの時、手に持っていた荷持つ。あの荷は一体、何だったのだろう。買い付けに荷を持って行くなんて、無いだろう。ねえ、栢丸。君、長次と何があったの。固く閉ざした目蓋が、動揺しているのか揺れている。そっと腹に僕の装束を掛けてやる。すると、栢丸の目蓋が開いて、僕を見上げてきた。
「ありがとう」
小さく呟いた栢丸の目蓋が再び閉じる。緊張が解されたのか、栢丸の唇からゆっくりと息が吐かれた。
考えられる事は唯、一つ。長次は栢丸が女の子であると知ってしまったのではないだろうか。長次は女を抱く事を一つの義務として捉えている節がある。まさかとは思うけれど、栢丸が長次を避ける理由といえば、これくらいしか思い浮かばない。僕のところに来てくれたのは嬉しいけれど、栢丸は次から次へと僕を不安にさせる。ねえ、栢丸。僕には留三郎の様に何か無いのかな。僕は栢丸に協力したのだから、何かご褒美があっても良いよね。
僕は栢丸が寝入った事を確認すると、栢丸の許可も無いまま、何度となるか既に数え切れない接吻――否、口吸いを強いた。