茶屋暖簾

友である前に、一人の男だという事を失念していただけ

 授業を終え、室に戻る。先日から苛立ちを募らせたままの仙蔵は手拭いで汗を拭い終えると、早々に室を出て行った。恐らく、作法委員会の活動があるのだろう。兵太夫に問い詰めなければと小さく口にしていたから。兵太夫が苛められないか心配だけど、私は私で兵太夫ばかりを心配してはいられない。仙蔵が居なくなった室で一人、汗を拭っていれば、室に近付く気配にはたと気付いた。そろりと近付く気配。でも、戸を引く事は無く、唯、その場に佇んでいるみたい。

「準備は出来たか」
「いや……長次は、早いな」
「此処で待っている」

 戸に掛かる音。室の入り口など、私達からすれば幾らでもあるのだけど、今の私にはその戸しか無い。白藤の地に藤の花の模様が散る衣を羽織ると、薄縹の色合いが鮮やかな袴に足を通す。荷には女物と化粧道具を詰め、私は長次が待つ戸の裏側に立った。茶屋に行くのだから、女装するのはきっと私。長次が女装して私が並んではかなり釣り合いが取れないだろう。暗黙の約束事に一息吐くと、ゆっくりと戸が開いた。長次の目が私の頭から足先を見て、私の目へと落ち着く。

「……一度知ると女にしか見えない」
「仙蔵の女装だって女にしか見えない」
「女装したお前も女にしか見えない」
「……行こう。時間が勿体無いだろ」

 長次から私の分の外出届けを受け取ると、私達は六年生長屋を出て門へと向かった。道中、伊作と田村という実に珍しい組み合わせに出会ったけれど、艶本の買い付けに出向くと言えば田村が顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。初々しくて可愛らしい。けれど、私は心中、穏やかでいられなくて、伊作の言葉に何て答えたのか覚えていない。何か言われた気がしたけれど、素っ気無く答えてしまっていた気がする。少し、気を悪くさせてしまったかもしれない。後で謝らないと。
 門前で掃除している小松田さんに外出届を出して、私と長次は町の花香へ向かった。花香は町では結構有名な色茶屋で、様々な人が出入りする。私としてはあまりみつねの姿で出向きたくはないのだけど、長次の言うままになるしか今は出来ない。長次には先に行って貰って、私は一人、道中にある竹林で着替えを済ましてから向かう事にした。
 正直、私は長次に抱かれる気なんて全く無い。念の為に苦無と針を数本忍ばせておいた。もしも抱かれろと言うのであれば、説得――というか、理解して貰えるように頼むしかないのだけれど、危険だと思わざるを得ないものであれば、卒業出来ない事を覚悟した上で抵抗――いいえ、逃げ出さなければならない。私は武家の娘だから、親の命があるまでは決して誰に抱かれてはいけない。卒業よりも大事な事だから。

「長次さん」

 みつねの姿を見せる事になるなんて、思ってもみなかった。花香を纏う独特な雰囲気の中、私は長次の背に声を掛けた。いつもの私――みつねの様で。でも、笑顔を作る事は出来なかった。振り向いた長次の相貌に、男の欲望とも取れる熱いものを感じたから。粟立つ肌に長次の手が触れてくる。嫌だ。でも引けない。これが忍務であれば、引いた途端に私は失格だ。

「……留三郎が見たら、みつねは乙女――いや、栢丸だと気付くだろうな」

 先日迄、親しい友だったのに。色好きという事を抜かせば頼れる友であるというのに。私の頬に触れてくる長次が全く別の人に見えて、私は視線を背ける事しか出来なかった。肩を抱き寄せられて、「花香」と少しばかり妖艶な筆で書かれた茶屋の暖簾をたくし上げる長次に先へと連れられる。手馴れているのか、人が込むというのに早々に案内されて、私は重い足を引き摺りながら階を登った。

「こういうところは初めてか」
「……小さな色茶屋であれば入った事がある」
「みつねはそのような喋り方をするのか」
「……何が、したいのですか」

 相部屋なのだろうか。そうなると、あまり見たくない光景を目にする事になる。今だって、通る廊下に情事の声が絶え間無く聞こえてくるのだから。

「俺は、栢丸……ではない、お前――みつねが知りたいだけだ」

 奥から二つ手前の一室の戸に手を置いた長次が私を見下ろしてくる。戸の作りは他に比べて少し品が好く見えた。席料を幾ら払ったのだろう。室からは人の気配は無い。衝立区切りの相部屋ではなさそうだ。
 戸が開かれた途端、目に入ってきた室の好さに、私は長次の心内を知った。やっぱり、長次は私を抱きたいだけなんだ、と。