染みる涙

男の涙がこれほど綺麗なものだとは思ってもみなかった

「今日、町で初恋の女に会った」

 夜着の腕を捲くり、酒を口にした途端、文次郎のぽつりと吐かれた言葉に私は咽た。あの文次郎が自ら女の話をするなんて、驚かない方が可笑しいもの。仙蔵も小さく笑ってる。

「三人で酒盛りするぞと言うから何かあるとは思ったが――まさか、文次郎から面白い話が聞けるとはな」
「恋煩いだなんて言わないよな、文次郎」
「それがな……お前と同じ、女なんだ」
「は?」

 お前と呼ばれたのは仙蔵で、私は文次郎と仙蔵とを交互に見遣る。先に視線を逸らしたのは文次郎で、仙蔵の表情がみるみる険しいものへと変わっていった。詰まりは、文次郎の初恋の女というのは――私、なの、か。あ、とっても嫌な予感がする。

「貴様、みつねに会ったというのか!」
「ああ。お前のところの一年――笹山とも茶屋で会った」
「何処の茶屋だ」
「言えるかっ」
「吐け、文次郎!」

 文次郎に掴み掛かるは仙蔵の手。暴れ取っ組み合いになる二人を他所に、私は一人ちびちびと酒を手に飲んでいた。でも、少しは文次郎に加勢してあげようかなとも思っている。仙蔵に「松風屋」の情報を口にしなかったから。それにしても、まさか、あの文次郎の初恋の相手が私だったなんて。何だかとっても複雑だ。

「仙蔵、今日のお前、おかしいぞ。一体、どうしたというのだ」
「どうしたも! ……無いっ」
「お、おわっ、なっ、仙蔵!?」

 文次郎の首を絞めていた仙蔵の肩を掴み引けば、急に鞍替えしたのか私の腰に腕を回してきて押し倒された。仙蔵の右拳が掲げられ、畳の上に叩き付けられる。一瞬、殴られるかと思った。

「みつねへ……のに」
「な、何だ、仙蔵」
「文を書いたのだ……みつねに。なのに、返事が無いというのはどういう事だ!」
「振られたんだろう」
「何だと、文次郎!」
「待て、待て、仙蔵! 文、書いたのか? 本当に、書いたのか?」

 上体を起こして仙蔵の今にも泣きそうな険しい顔に、私は思わず手を伸ばした。あ、涙が目元に。女装でもしていれば男がころりと転がり込んでしまいそうなくらい、仙蔵は綺麗な涙の軌跡を頬に描いた。仕様の無い仙蔵。一寸、可愛らしく思えてくる。捲くっていた袖を下ろして、私はその袖口で仙蔵の頬に描かれた軌跡を消した。すっと消える仙蔵の涙に、思わず苦笑してしまう。仙蔵に睨まれてしまうけれど。
 ――にしても、成る程。それで最近、苛々していたわけだ。でも、おかしい。私は兵太夫からの文以外、貰って――いや、何か忘れている気がする。仙蔵の頭を軽く叩き撫でながら立ち上がると、私は気掛かる先へ足を向けた。衝立の奥の、私の文机。その上に置かれた文箱。文次郎の宥めが仙蔵を逆立てている間、私は静かに文箱を開け、文を探した。思えば、あの時、兵太夫からの文に浮かれていた。確かに二つあった文。もう片方の文を、私は開けた記憶が無い。

「これだ」
「おい、栢丸! 頼む、仙蔵をどうにかしてくれ! 俺が死ぬ!」
「悪い、私は厠に行ってくる。それまで持ち堪えろ」
「はあ!?」
「仙蔵」

 夜着の襟元を取り、またもや文次郎の首を絞め様といきり立つ仙蔵に、私は苦笑を零しながら一つ頭を撫で叩いてやった。普段の澄まし余裕な顔が嘘のようだ。

「お前らしくもないだろう。もしかしたら、そのみつねは何と返事を書けば良いのかと思い悩んでいるのかもしれない。もう少し待ってもやれないのか? 普段の仙蔵は我慢強い方だろう? ――という事で、後は任せたぞ、文次郎」

 女々しいのか雄々しいのか分からない。けれど、確かに言える事は、私がそんなどうしようもない仙蔵に慣れてきたという事。まあ、あまり失敗しない完璧主義な仙蔵を見てきたからかもしれない。偶には弱々しい仙蔵が見たいと思っていたから。
 懐に忍ばせた仙蔵からの文に手を当て、私は厠へ足を向けた。