「どうぞ」
「悪いな」
店の人が来ないので、私は渋々と文次郎へ冷茶を差し出した。頬を膨らまして文次郎を睨む兵太夫の頭を撫で宥めると、とっても――何と言葉にすれば良いのか、そう、悔しそうな顔を私へ向けてきた。「何でお茶渡しちゃうのっ」と言いたげな目。実習帰りだって知っていたから渡してしまったけれど、此処は渡さないでおいた方が良かったかもしれない。いやいや、隣で少しぐったり気味な男性が居れば、茶をどうぞと渡すのが普通の娘。だから、大丈夫。そう、大丈夫な筈。
「……な、何か」
「いや、お前達、引っ付き過ぎじゃないか……。まあいい、それよりお前」
「は、はい」
「名も言わず去るとは良い度胸だな」
「はい?」
文次郎の言葉がよく分からなかった。名も言わずに――という事は、私を栢丸と思って声を掛けて来たのではなかったという事。でも、去る――という事は、以前に私はこの姿で文次郎と出会っている事になる。出会った事、あったかなあ。
「まさか、俺の事を忘れたのか! ……花緒を切らして困っていたところを、紐屋迄担いで行ってやったというのに」
「……あ」
思い出した。五年生の頃だ。確かに、私は文次郎とみつねとして出会っている。あの時はまだ、私がみつねである事を隠す必要が無かったから、気に掛けていなかった。
ぶつり。と、とても嫌な音が足元で鳴った。花緒が切れた感触に、まさかねと思いつつも私は足を見遣った。ああ、やっぱり、切れてしまってる。それも、左足の花緒が。町迄まだ少し掛かるというのに、どうしようか。紐の代わりになるものは無かったかな。懐に手を当てて探るも、花緒の代わりになる物は出てこなかった。さて、本当にどうしよう。相当、困ってはいない。でも、歩くには不便。少し暢気に空を見上げていたら、背後から「どうした」と男の人の声がした。聞いた事があるような――でも、男らしくて澄んだ綺麗な声。誰だろうと振り返り見遣れば。
「も、も!」
「桃? ……何だ、花緒が切れたのか」
「あ、や、あの」
「ほれ」
文次郎が居た。何故、私の後ろに文次郎が。女物を身に纏ったのは少し前の事で、その時は辺りに人気は無かった。私が栢丸であると知っているのか知らないのか、文次郎は私の足元にしゃがみ込んで、膝を立てては私の手を取る。自分の膝を二回叩き、足を乗せろと言っていた。これは――果たして、男にする行動だろうか。
文次郎が私を栢丸として見ているのか、それとも本当に女として見ているのか、それを理解したのは文次郎の「気にするな」の一言だった。男に優しい文次郎なんて見た事が無い私には、その一言だけで十分に理解出来た。それにしても何て男らしくて格好良く見えるものなのだろう。思わず赤面してしまいそうになるくらい、今の文次郎はとても男らしかった。意外な一面を見た気がする。気がするんじゃない。本当に、初めて見た。そろそろと足を文次郎の膝の上に乗せると、足首を掴まれ、じっと見詰めてくる文次郎。あの、一寸、それは恥ずかしいのですが。
「此れは無理だな……」
「あ、あの」
「背に乗れ、俺が紐屋迄連れて行ってやる」
「あ、いえ、あの――」
「俺の名か? 俺は潮江文次郎だ」
「そうではなくて――」
よく分からないけれど、何故かとっても恥ずかしい。恥ずかしくて、恥ずかしくて、私は文次郎の厚意に素直になれなかった。
「だ、大丈夫です、一人で歩けますから」
「花緒が切れては歩けんだろうが。遠慮はするな、ほら」
「ほ、本当に大丈夫です!」
花緒が切れた草履を手にすると、私は片足立ちで前へと進んで見せた。文次郎の背中に負ぶさるだなんて、恥ずかしくて出来るわけがない。ほらね、と振り返り見遣れば、直ぐ後ろに文次郎が居て、私は思わず文次郎の胸元に手を着いて押してしまった。でも、傾いたのは文次郎ではなくて、私の身体で。
「……あ、ありがとうございます」
「人の厚意を無下にするな。お前は男を立てるという言葉も知らんのか」
「な゛っ」
私の身体を支えてくれた事には感謝する。恥ずかしいけれど。でも、文次郎の言葉には幾つかの棘が見え隠れしていて、私は親切である筈の文次郎を睨み上げてしまった。
「大丈夫だって言っているのに……執拗な厚意は、厚意とは呼べないのでは?」
「片足でどう町迄行くと言うのだ。そんな細っこい足で、道中怪我するぞ」
「此れでも足腰は丈夫です! ご心配無く! さ、放してください!」
「放したら危ないだろうが!」
「貴方に怒られる筋合いはありません! いいから、放して! 叫びますよ! 誰かー! 誰っ――ふが」
「黙れ!」
口を文次郎の大きな手に塞がれ、私は力一杯抵抗するにも文次郎の肩へと担がれてしまった。女の子を担ぐだなんて、文次郎は繊細な心遣いが欠如してる。鍛錬、鍛錬で女の子の扱いを知らないのではないのだろうか。って、先迄ちゃんと女の子扱いされていたのだけど。何だか、とても不愉快に思えた。文次郎の広い背中を拳で叩きながら、私は町迄文次郎に担がれ送って貰った。
「遅いっ!」
「痛ぁっ」
「ぼくの姉上に何するんですか!」
ありがとう、兵太夫。私を庇ってくれるなんて、兵太夫は本当に優しい子ね。それに比べてこの文次郎という男は。思い出した私に拳を落としてきた。一応、女の子なんですけれど。酷い扱い。ああ、そうか、此れだから文次郎には彼女が出来ないのか。そういえば、この間の飲みの時、慕う相手が居ると言っていたけれど、さては振られているな。文次郎に小突かれたところを撫でてくれる兵太夫の手がとても優しくて、兵太夫に甘えてしまいそうになる。でも、駄目。私は姉上なのだから。兵太夫を甘やかす事は幾多あれども、兵太夫に甘える事はしてはいけない。心優しい兵太夫を少しは見習え。と、思いながら文次郎を見遣れば、その文次郎は不思議そうな顔で私と兵太夫を交互に見る。
「お前達、姉弟なのか……という事は、お前がみつね」
「そうです、けど」
ふと口元に手を当てて視線を逸らす文次郎を他所に、私は兵太夫の手を掴んで、茶屋の奥へ場所を移した。今頃、仙蔵の想い人だったのかとでも思っているのだろう。今日、私が兵太夫と会っていたと仙蔵に言うのだろうか。少し気に掛かるけど、言われても仕方が無い。もしかしたら、兵太夫から仙蔵に言ってしまうかもしれない事でもあるし。もう、気にしない事にした。
「美味しそうね」
「姉上、ぼくのと姉上の、半分こだからね」
「はいはい」
兵太夫は羊羹を手に、私は心太を手に、文次郎の事は忘れて仲良く食べる事にした。