思わず立ち止まってしまった。善法寺先輩の背から颯爽と姿を現した女性に俺は一目奪われた。少しばかり頬を朱に染め、澄ました顔と言うべきか、拗ねた顔というものなのか、とにかくとても可愛らしくも綺麗な顔が俺の前方に見えた。
「伏見先輩……?」
ふと口にしてしまった。伏見先輩にとても似ていたから。でも、俺の目には女性にしか見えなかった。俺の好きな伏見先輩にしては仕草とか歩き方が見慣れないもので、伏見先輩が女だったらこんな感じなのではないのだろうかとつい思ってしまう程。
だが、善法寺先輩から俺へと向けられた視線に、俺は確信した。彼女は――いや、違う、彼は伏見先輩だ。
「兵助」
「伏見……先輩」
瞠目する伏見先輩の瞳が揺れている。可愛い。本当に可愛い。女装したらこんなにも可愛らしいものだなんて、思ってもみなかった。きっと、鳴く時はもっと可愛いに違いないな、これは。薄く紅を施した唇を引き結ぶ伏見先輩が可愛くて仕方が無い。思わず、咽喉を鳴らしてしまう。善法寺先輩に殴られた頬が痛むけど、それ以上に痛い思いをしても良いからまた伏見先輩に触れたいと思ってしまう。
「伊作っ」
「何か用、久々知」
でも、そんな事、許されない。善法寺先輩が俺の目の前から伏見先輩の姿を隠してしまった。善法寺先輩の背に隠された伏見先輩が恋しい。背の高い善法寺先輩に隠れる伏見先輩が小柄で、本当に女性のようで、俺は触れたくて仕様がなかった。どうすれば触れられるのだろう。俺が、自分の気持ちを押さえ込む事が出来ていたのなら、こんなにも警戒される事もなかったかもしれない。それとも、伏見先輩は既に善法寺先輩のものとなっているのだろうか。いや、口吸った時、手馴れた感覚は無かった。善法寺先輩は俺と同じなのか。伏見先輩と好き合っているのか。分からない。知りたい。俺が入り込む隙があるか、確かめたい。
「……もうしません。だから、伏見先輩と話をさせてください」
善法寺先輩の鋭利な視線が俺の目を射抜く。思わず目を逸らしてしまいたくなるような痛さを胸奥に感じた。でも俺は逸らさない。逸らしたら負けだ。
善法寺先輩と対峙していると、伏見先輩のしなやかな手が善法寺先輩の装束の袖を掴み引いた。上目遣いに訴える伏見先輩に、俺の胸はざわめいてしまう。苦しい。触れたい。俺のものだけにしたい。なのに、何で。何で、伏見先輩の隣には善法寺先輩が居るんだろう。何で俺じゃないのだろう。
「栢丸」
「大丈夫だ、伊作。皆で先に行っててくれ。私は兵助と少し話をする」
正直、嬉しかった。強引に口吸って好まれない事をしたというのに、俺と話がしたいと言ってくれた。嬉しくて、そして申し訳無い事をしてしまったと、後悔した。嫌われて当然な事をした俺に向かい合ってくれる伏見先輩。そんな先輩に俺は何て事をしてしまったんだろう。
不満そうな善法寺先輩に「大丈夫だ」と声掛ける伏見先輩の後ろから――これはきっと立花先輩だろう――女装した人が善法寺先輩の手を取って俺の横を通り過ぎて行った。その後を少し体格の良い――これもきっと六年生の誰かが女装しているのだろう――人が続く。廊下に残されたのは俺と伏見先輩。他の生徒は今のところは姿一つと見えない。
俺と伏見先輩は沈黙してしまう。何を話そう。いや、その前に俺は謝らないといけないのかな。でも、謝りたくない。本当は謝りたくなんか、ない。謝るという事は、伏見先輩は俺の事、好きでもなんでもない。むしろ、迷惑だという事を、俺が認める事になるから。伏見先輩から謝れと言われたら、その時は謝る。けど、俺は、俺からは絶対に謝りたくなかった。だから、思わず、別の事を口にしてしまった。
「その格好」
「ああ。文次郎の女装に付き合わされたんだ」
以前と変わりない口調に、俺は少しほっとした。でも、あれ――さっき、伏見先輩は文次郎と――あの体格の良い人は潮江先輩だったのか。俺が言葉を詰まらせていると、伏見先輩がくつくつと小さく笑い出す。あ、可愛い。
「似合いますね。まるで、本物の女の子だ。……とても、可愛い」
「そ、そうか」
女の子らしい反応だ。少しばかり恥ずかしさを載せた表情がまた可愛らしい。思わず、俺はそのはにかむ頬へ手を伸ばした。瞬間、俺の手首が伏見先輩の手に掴まれた。真っ直ぐな揺ぎ無い視線。二度目は無いぞと言われているようで、俺は息を呑んでしまった。
「お、俺、伏見先輩にした事、謝りません」
「……兵助に慕われるのは嬉しい」
「え」
否定されるものとばかり思っていた。だが、伏見先輩は俺の気持ちを受け取ってくれた。揺ぎ無い視線に偽りの色は見えない。でも、伏見先輩の視線はとても厳しいものに見えた。
「だが、あんな……強引な兵助は嫌いだな。今まで通りの、普通に慕ってくれる兵助の方が私は好きだ」
「伏見先輩」
触れたい。抱き締めたい。そして、もう一度――今度はちゃんとした形で「好きです」と言いたい。
「本当に、もうあんな事しません」
「ああ」
「伏見先輩が嫌がる事、絶対にしないから」
「そうか」
「だから――」
ようやくと微笑んでくれた伏見先輩の手を掴んで、俺は願った。
「触れる事を許して欲しい」
「……もう、触れてるだろう」
「あ、いえ、これではなくて」
「タカ丸みたいな事をしてくれなければ良いさ」
苦笑を零す伏見先輩の手が少し震えている。本当は俺に触れられたくないのかもしれない。でも、何故、斉藤の名が出てくるのだろう。斉藤のような事をしなければ、少しは触れても良いという事だろうけど、俺は伏見先輩をしっかりと男として見ている。いや、でも、今は女性として見てしまいそうになっているが。
「俺は伏見先輩の事、男だって思ってます」
「……ああ、うん。そうだな」
話が噛み合っていなかった。斉藤が伏見先輩に失礼な事を言ったのは覚えている。あの後、斉藤は伏見先輩に殴られて帰って来た。気拙い空気の中で、俺は察した。そもそも、俺は伏見先輩に何をして距離を置かれた。強引に口吸ったからだろう。という事は。
「……斉藤が何かしたんですか」
「い、いや、してない」
「何か、されたんですね!」
「されて――ない、ない。何もされてない!」
「……下は、大丈夫なんですか?」
「した?」
「抱かれてませんか?」
「な、何を言い出すんだ!」
慌てて青褪める伏見先輩に、俺は詰め寄った。俺よりも小さい伏見先輩の手を握ったまま、俺の質問から逃げられないように、俺は伏見先輩を引き寄せた。こんなにも可愛い伏見先輩の事だ。斉藤だけじゃない、他の男にも言い寄られているかもしれない。
「抱く事はあっても抱かれた事など無い!」
「本当に?」
「本当に! ったく、何を言わすんだ!」
「……良かった」
「わっ、へ、兵助っ」
本当に良かった。誰にも抱かれていない。抱く事はある――というのは、きっと女の事だろう。こればかりは仕方が無い。伏見先輩も男だから。でも、伏見先輩は誰にも抱かれないでいて欲しい。抱かれるのならば、俺にだけ抱かれて欲しいから。伏見先輩の言葉を聞いて、俺は力がすっと抜けてしまった。肩を引き寄せて包み込む様に抱き締めると、伏見先輩が俺の腕の中にすっぽりと納まる。あ、こんなにも華奢だったんだ、この人。慌てる声がまた可愛い。
「伏見先輩」
「……兵助、暑いから離れてくれ」
「好きです」
「――っ」
耳元でそっと囁けば、伏見先輩の肩がびくっと小さく動いた。俺の言葉に反応してくれている。その事がすごく嬉しくて、俺は伏見先輩の頬に軽く触れるだけの接吻をした。
「兵助!」
一瞬だった。どこをどうしたのか、分からなかった。俺の腕の中に居た筈の伏見先輩が消えて、何故か俺の頭上に激痛が走った。
「タカ丸みたいな事したら、次からは容赦しないからな」
斉藤が何をしたのか、よく分かりました。でも、次というか、既に容赦してない気がします、伏見先輩。