傍観に徹するにも限度があると知った。まさか、五年生のあの久々知が栢丸に襲い掛かるだなんて、思ってもみなかったから。くノたまの――確か、ユキだったかな、あの子は仕方が無い。栢丸が男の形をしているのだから、女の子が栢丸に寄り添おうとするのは至極当然の事だ。でも、あの栢丸がユキに接吻――それも、深い口付けをするなどと思ってもみなかったものだから、驚いた。でも、仕方が無い事だ。それに、僕は何年も前に栢丸の初めてであろう唇を奪っている。それも、何度と。だから、一回だけなら、それも栢丸が是としたのなら、良いかなと目を瞑る事が出来た。でも、久々知はそうも行かない。
僕は医務室の戸の前で、あの苦々しい光景を振り払おうと必死だった。僕でさえ見た事の無い、栢丸の息苦しく怯える顔。僕は何時も、彼女の意識が遠退いている内に口付けてばかりいたから、彼女のあのような艶めいた顔を見たのは今日が初めてだった。それも、僕ではない、あの久々知が引き出した。それが許せない。何故、気付かなかったのだろう。久々知が栢丸を好いていたなんて、何故、察せなかったのだろう。久々知の気配も知っていたというのに。
「善法寺先輩、入らないんですか?」
「数馬か」
「……気分でも悪いんですか? 顔色、あまり良くないですよ」
相当、酷い顔をしているのだろうなあ。数馬が少し怯えてる。鼻で一つ息を吐いて、僕は口元に笑みを乗せた。大丈夫だ。栢丸は長屋に戻したし、久々知には一発見舞ったから。久々知には敵愾心を向けられたけれど、僕はそれを殺気で往なした。今後、どんな手を打って来るのか、それだけが心配だ。いや、もう一つ心配がある。栢丸は――彼女は大丈夫なのだろうか。
「数馬、すまない。今日の委員会活動は中止だと伝えておいてくれ」
「分かりました。……その、大事になさってください」
「ありがとう」
数馬の頭をひと撫ですると、僕は来た道を戻った。向かうは栢丸の居る長屋だ。きっと、戸惑っている筈だ。男装し、男として振る舞っている栢丸だからこそ、久々知に今後、どう反応すれば良いのか、きっと悩んでいる。僕が何を言えるわけでも何が出来るわけでもない。でも、栢丸の傍に居たい。そう、思った。
本当は、僕も栢丸の唇に吸い付きたかった。ちゃんと意識がある時に。でも、それは叶わない。だからこそ、栢丸には申し訳ないけれど、内緒で口付けていた。仙蔵が女を連れ込んで来たから此処で寝かせてくれって、僕の部屋に来た時とか。仙蔵が居ない時を見計らって、僕が栢丸の部屋に泊まりに行ったりした時とか。僕はかなり狡い事ばかりしている。
「……羨ましかったんだ」
久々知が。とても羨ましかった。醜い自分の欲を隠す事無く栢丸に迫った久々知が憎らしくも羨ましく僕の目に映った。僕には出来ない事をやったのだから。
久々知の肩を掴んで殴った時、そのまま僕も栢丸に迫ってしまおうかとも思った。栢丸の潤んだ目。少し震えていた唇。久々知との混じった唾液が口端から流れ出たまま息を整えようと必死になっていた栢丸が、欲しくて。栢丸の腕を掴んだ時、僕は自分を取り戻した。抗おうとする栢丸の目を感じたからだ。久々知と同じ事は出来ない。そう思って、僕は苦々しくも胸内を閉ざして栢丸をその場から連れ出した。長屋迄の道のりが遠く感じた。何一つ声に出さず、僕は栢丸の腕を強く引いて歩いていた。しなやかに鍛えられた細い腕。女の子にしては程好く付いた筋肉。でも、やっぱり細くて、女の子のものだって僕には分かった。自分を取り戻した筈なのに好からぬ考えが次々と浮かんできて、僕は委員会活動を理由に逃げる事にした。「ありがとう」と栢丸の濡れた唇が言う。僕の心内を知れば、きっと栢丸はそんな事は言わないだろう。知らないから言ってくれるんだ。本当に、僕は酷い。醜いな。
六年い組長屋の廊下に足を進め、僕は栢丸の室の手前で止まった。開かれたままの戸の奥を見遣れば、栢丸が――。
「私がお前を女にしてやる」
先迄の、あの怯えていた栢丸は何処へ行ったのだろう。妖艶な笑みを溢しながら文次郎に迫る男の顔をした栢丸が居た。楽しげに笑う仙蔵。慌てふためく文次郎。僕の心配など余所に、栢丸は男に戻っていた。
僕は何を期待していたのだろう。胸に不安を募らす栢丸の隙を衝けば、実は女の子なのだと僕に打ち明けてくれるとでも思っていたのだろうか。僕に縋り付いて、栢丸の弱々しいところが見られるとでも思っていたのだろう。自惚れていたんだ。僕だけが栢丸を救える。僕だけが栢丸が女の子であると理解している。この優越感に僕は酔い痴れていたんだ。
「楽しそうだな。僕も混ぜてよ」
「伊作、助かった! こいつ等を止めてくれ!」
「委員会だったんじゃ――」
「今日は中止になったんだ。で、君達は文次郎に何をしてるんだい?」
胸がずきずきと痛むけど、僕が勝手に思っていた事なのだから仕方が無い。それでも、喉奥に沸き立つ苛立ちは引っ込んでくれなくて、僕は栢丸から何かを奪えないかと必死に考えた。
気付いて欲しい。僕を見て欲しい。栢丸が欲しい。そんな欲が僕の理性に抗っていた。