授業の終わりを告げる鐘が鳴った。委員会活動の無い今日は夕食迄の時間を何で過ごすか決め兼ねるな。自習であったものだから、久々に座学でもと文机に向かっていた。だが、俺の頭には書の内容よりも、今頃何をしているのだろうかとみつねを想ってしまう。らしくもない。忍者の三禁である色に脅かされている自覚はある。だが、みつねさえ手に入れば俺は何者にも脅かされないだろうと思えてくるのだ。鐘が鳴った後も、俺の視線は書に向かったままだ。書を閉じる事が億劫に感じる。一目だけで良い。みつねの姿を見る事が出来れば、みつねの俺を見るあの微笑みさえ見る事が出来れば、俺はどんな事にも耐えられるだろう。
「仙蔵」
「どうしたのだ、お前らしくもない」
天井板が外され、栢丸が帰って来た。普段ならば戸より入って来る栢丸が俺の頭上より顔を出すなど、久々の事だ。何か遭ったのだろう。気配を消して静かに過ごす時は大抵、思い詰めているのだから。深い悩みなのだろうな。小さな悩みの一つ二つであれば此処まで影を背負ってはおるまい。
「入れ」
天井裏は暗い。栢丸の面も見えない。まるで二年前のようだ。俺と栢丸が四年生であった時、あの夜も栢丸は俯き面を隠していた。
無理も無い。あの時はくノたまの上級生に閨房術の実習に付き合うよう攻め立てられ、押し倒されていた。俺の帰りが少しでも遅ければ、そのまま流されていただろう。あの時の栢丸は男にしては頼りの無いものだった。俺が室の戸を開けなければ、栢丸も一皮剥けていたのかもしれないが。
室に下り立つ栢丸の髪が空に流れる。俯いたまま俺に背を向け、早々に自分の文机に向かい座す。背を向け合ったまま、栢丸は何一つ物音を立てない。上半身を傾け栢丸の背を一瞥すると、俺はようやく書を閉ざした。本当に仕様の無い奴だ。
「栢丸、ほれ」
俺の肩を叩き、見ろと促す。ゆっくりと面を上げ振り返った栢丸は何とも言い難い面をしていた。一瞬、女かと見紛う。みつねの仕草に似ていたからか、俺の胸が鳴った。いや、違う。よく見れば分かる。みつねではない。偶々、みつねのように見えただけだ。俺は栢丸から視線を逸らし、文机に置かれたままの書の背を見詰めた。暫し待てば、俺の背に栢丸の重みが圧し掛かる。
「何が遭った」
栢丸は俺以外の誰に話す事もしない。俺が訊くまで、口を閉ざすのだから。仲の良い伊作にでも話せば良いものだが、何故か栢丸は伊作には話さない。奴の方が話し易いだろうに、不満や悩みは何時も俺が聞いている。まあ、同室の誼みだ。
「……私な」
「ああ」
「初めて、男に口吸われた」
何れされるだろうなとは思っていたが、本当にされるとはな。先日の斉藤か。栢丸は男にしては頼り無い身体付きなのだから、組み敷くのは容易そうだ。俺も以前、先輩にされそうになった事があるが、俺は返り討ちにしてやった。だが、栢丸はどうだろうか。力は強い。柔軟で素早い。俺も体術では栢丸には勝てないだろう。だが、懐に踏み込み手足を奪えば容易く組み敷けそうに思えるのだ。斉藤は四年生だったか。だが、四年生では些か無理があるな。栢丸には隙が無い。益してや、斉藤は栢丸が嫌う性格だ。隙を見せる事など無いだろう。だが、確認はしておこうか。
「斉藤か?」
是ではなく、俺の背に押し付けられた栢丸の額が右往左往と俺の背を擦る。否定か。
ともなると、留三郎か。奴なら有り得るな。体術は栢丸に並ぶ。栢丸に比べ軽やかとは言えない動きだが、力強さは栢丸を凌ぐのではないだろうか。気を付けろと言ってやったというのに、とうとう留三郎のものにされたか。哀れなものだ。
「年下にされたんだ」
「何だ、留三郎ではなかったのか」
「あいつは乙女にはするだろうけど、私にしたいとは思わないだろう」
五年生か。五年生の中で栢丸を慕う者など居ただろうか。まあ、良い。俺には関係の無い事だ。
「何時ものように殴り返したのだろう」
「……出来なかった」
「ほう。年下相手に情でも移った――」
栢丸の腕が俺の腹回りを締める。待て、俺は男に興味なんぞ無い。俺を引き摺り込もうとしているのか。「俺まで巻き込むな」と口にし、栢丸の腕を解きに掛かるが、俺の背に熱いものが広がり、思わず手を止めてしまった。
「……怖かったんだ」
あの栢丸が「怖い」と口にする事など、今までに一度足りとなかった。俺の背に広がる熱いものは、栢丸の涙だろう。じんわりと滲み往く俺の衣に更に重みが増す。
俺も以前に恐ろしいと感じた。考えるだけで吐き気がする。俺は男に抱かれる事はなかったが、栢丸は抱かれたのだろうか。それとも、抱いて欲しいと乞われたのだろうか。俺に縋り付く栢丸の身体は女のようだ。男に比べ、とても頼り無い。小さくて、引き寄せてしまえばあっという間に腕の中に納まってしまいそうだ。
「悪い、仙蔵。もう少しだけ……このままで居させてくれ。他意は、無いから」
「他意があれば今頃投げ飛ばしている……何時もの事だろう」
「……ありがとう」
胸は貸せない。胸は女――みつねだけのものだ。だが、背ならば友に貸してやっても良い。それも、俺が許した者だけならば。栢丸、お前は俺が許した唯一の者だ。頼り無いお前は俺の背にだけ見せれば良い。俺は何も見ていない。誰も、お前の情けない姿など、見ていない。お前は男だから。
俺は栢丸の腕を掴むと、より引き寄せ締めさせた。