私の夏休みはある意味地獄だった。仙蔵の訪問に始まり、一日の滞在かと思いきや三日も同じ屋根の下で過ごし、兵太夫が仙蔵の袖に醤油を溢した始末として私が仙蔵の着物を洗う事になり、何がどうしてそうなってしまったのか皆目見当着かないのだけど、私の膝には兵太夫だけならまだしも仙蔵が頭を寄せ、耳かきまでさせられた。父も母も「あら、初々しいわね」「まるで若かりし頃の私達だな、なあお前」「ええ、あなた」うふふあははと遠くから見ているだけで助け舟すら出さずに居る。武士の子として、また礼儀を学ぶ身である娘が、殿方とは言いたくないけれどまあ世間一般では殿方の部類に入る男の世話をするなんて、少しおかしくありませんか。許嫁でもないのに何故、私が仙蔵の世話をしなければならないというの。父と何やら面識がある所為か、私はただただ「どうぞ、ごゆっくり」とにこやかに微笑む事しか出来ない。
まあ、明日には帰るだろうからそれまでの我慢。と思いきや、仙蔵に手を振って遠ざかる背を見送ったその三日後に奴はまたやって来た。やって来たその日は滞在する事は無かったけれど、そのまた三日後にやって来ては帰ると繰り返していた。縁の下で涼む仙蔵に団扇掛けしたり、仙蔵の髪を梳いたり、仙蔵に手を取られ行く先々で花を貰ったり、兵太夫と過ごす夏休みが仙蔵に蝕まれ、私の記憶に残る夏休みは仙蔵という名の厄介者に因って苦々しいものとなった。
姉想いな私の可愛い兵太夫は仙蔵に触発されたからか、私を喜ばす為に作ってると言っていた小さなからくり作りが、今では対仙蔵用にと恐ろしいからくりを作るにまで至った。左手を仙蔵に取られれば、右手を兵太夫に取られ、私は一寸――否、かなり痛い思いをしている。
「それも今日で終わりかな」
仙蔵に振り回された夏休み。最後の夏休みが地獄の夏休みになるなんて思ってもみなかった事だが、次の長期休みもそのまた次の長期休みも、私はこの大川学園で過ごす事を腹に決めた。兵太夫には可哀想だけど、仙蔵に振り回されるくらいなら卒業までの休みは静かに過ごしていた方が身と心の為になる。
だが、それは仙蔵が栢丸とみつねは同一人物だと知れていたらの話に過ぎない。もしかしたら、大川学園に居られなくなってしまう可能性も出てくる。どちらにせよ、私は仙蔵を張り倒す気でいた。
「早いな、栢丸」
「せ、仙蔵」
「何だ。俺の顔に何か付いているか?」
「いや」
戸を全開にしていたから誰かが部屋に近付いていたのは分かっていたけれど、それが仙蔵だったとは気付かなかった。栢丸の顔で出迎えるという心の準備が中途半端だったから、思わず名を呼ぶ声が裏返ってしまっていた。気付いてるのかなあ、やっぱり。荷物を置き、手拭いで汗を拭う仙蔵の顔をちらちら見る。
「どうした、さっきから」
「いや、今日は暑いよなって、思ってさ」
「ああ、暑い」
もしも、仙蔵が気付いていたのなら、どんな行動に出るだろう。人で遊ぶ事が好きそうな性格だから、今までと変わらずで接してくるかもしれない。私の隙を見て、がつんと突っ込んできそうだ。
「なあ、仙蔵」
神経を研ぎ澄まして仙蔵の顔を窺いながら生活するなんて、私には無理だ。髪帯を解き咥え、その真っ直ぐな髪に櫛を入れる仙蔵の振り向いた顔に、私は視線を外して問う事にした。
「兵太夫の姉君は、どうだったんだ……?」
素顔と栢丸で居る時の女装は分けている。栢丸の名を語っている時の変装は自負している。だが、相手はあの仙蔵なのだから、もしかしたらと私の心は少しばかり――いや、実はかなり怖気付いていた。変装は完璧でも、共通点を見付けられてしまえば元も子もないのだから。
「ああ、お前に誘いを断られて正解だった」
「……どういう意味だ」
「あれは見せられるものではない」
どういう意味ですか、仙蔵さん。思わず腕に備えている暗器を仙蔵に向けてしまいそうになった。少し得意気に、それも楽しげに語り始める仙蔵に、私は殺意が芽生えそうになる。一応、今は男らしくしているけど、仙蔵の世話をしていた時はちゃんとした女の子だったのですが。私の貴重な夏休みを壊しておきながらじっくり品定めされていたなんて。
「仙子の方が良い女、って事か」
「いや」
髪帯が締まる音と同時に仙蔵は私に向き直り、形の良い口元に弧を描きながら恐ろしい事を発した。
「あれは俺のものにする。初めて女というものを知った気がした。そんな女性だ」
熱の籠った声音と表情に、私は見てはいけないものを見た。そんな気がした。気付かれていたんじゃない。気付かずに仙蔵は私に恋をしてしまったのだ。――という事だけは絶対に嫌だと、心の底から思った。