兵太夫や仙蔵よりも早く帰らないと。出門者の確認を取る小松田さんに、伏見栢丸の名で一筆。行ってらっしゃいと手を振られ、律儀に返すと、私は全速力で駆け出した。途中の竹林の中で女物に袖を通し、笹山みつねに戻らなければならないから。
何故、こんなにも面倒な事になったのだろう。化粧もして、荷を畳んで、再出発。足早に実家へ戻ると、兵太夫と仙蔵はまだ着いていないようだった。父と母の出迎えに久々の実家の匂いを吸った。うん、やっぱり、家の匂いは落ち着く。荷物を自室に置いて、男物を箪笥の引き出しの底へ隠した。見付かったらお終いの代物だ。丁寧に、物音を立てずにきちんと仕舞う。
「みつね。兵太夫が帰って来ましたよー」
「は、はーい、只今」
まだ心の準備というものが出来ていない内に帰って来るなんて。落ち着け、落ち着くのよ私。大丈夫、普段通りの武家の娘を演じれば良いのよ。兵太夫の姉は演じるものではないけれど。
客間へ行くよう案内され茶を持たされる。父と私、兵太夫の分にしては一つ多い。ああ、やっぱり来たんだ、あの莫迦仙蔵。縁側より座し、戸の合わせに手を添えて入る。
「姉上ー!」
「こらこら、お茶が零れてしまうでしょう」
「兵太夫もまだ姉離れはしていないか」
戸を開け、お茶の乗る盆を両の手に持つと、兵太夫の顔が飛び出してきた。満面の笑顔で首へ抱き着いてくる兵太夫に、久々の小さな温かみを感じると、思わず、涙ぐみそうになる。本当に久々だった。
駄目でしょうと怒る私の声も、厳しさの欠片も含まれていなかった。一向に離れない兵太夫に、私もお盆を置いて、その小さな身をぎゅっと抱きしめる。半年近くまともに見ない間に、少しばかり大きくなった兵太夫。でも、顔を覗けばまだあどけない可愛らしい兵太夫のままだった。
「みつね、兵太夫。好い加減に離れなさい。客人に失礼だぞ」
「ごめんなさい。さ、兵太夫、姉上から離れて。後でうんとお話を聞いてあげるから」
「はあい」
お盆を両の手に持ち直し運ぶ。客人に視線を移すと、やはり仙蔵だった。何とも言い難い表情のまま見詰めてくるから、にこりと笑ってみると、小さく一礼された。気付かれてしまったのかな。いや、仙蔵なら気付けば意地の悪い笑みを浮かべる筈。
お茶を差し出し、お盆を隣へ置くと、お盆とは反対の位置に兵太夫が座り込んだ。私の膝に手を乗せて、今にも泣きそうな目で見上げてくる。どこでそんな上目遣いを覚えてきたの、兵太夫。お姉さん、胸が張り裂けそうよ。
「みつね。此方の客人を知っておるな」
「はい、存じております。六年い組の立花仙蔵さんですよね」
「ああ」
「わたくし、兵太夫の姉のみつねと申します。兵太夫が委員会でお世話になっているそうで」
兵太夫の頭を撫でると、少し恥ずかしそうに、だが、とても嬉しそうに身を寄せてきた。本当に甘えん坊で、兵太夫の嬉しそうな顔を見ると、私の胸奥がぽかぽかしてくる。仙蔵へ視線を向けば、先と同じ何とも言い難い顔で此方を見ていた。初めてみる表情に、仙蔵の心内が見えない。
「大川学園でのお話が聞きたいそうだ。何やら、兵太夫も学園でみつねに会えていないようだからな」
「あ、あの、お父様は――」
「席を外す。立花の――いや、仙蔵。今日は泊まってゆくな?」
「はい、お言葉に甘えたいと思います」
「立花には此方から連絡を入れておくから、ゆっくりしていけ」
「ありがとうございます」
仙蔵と父は顔見知りなのだろうか。折角淹れてもらったお茶をそのままに、出て行ってしまった。戸の閉まる音がすると、私の胸に兵太夫が飛び込んできた。
「姉上! ぼく、学園中探し回ったんだ! でも、全然見付けられなくて」
「へ、兵太夫、立花さんの前で――」
「くノ一教室も五年生までだって聞いた! ねえ、姉上はどこに居るの?」
「私も知りたい。宜しければ教えては貰えないだろうか」
お、悪寒がした。仙蔵と目を合わせると、背筋がぞっとする。これは何。何で。
「そ、それは、わたくしも兵太夫にお話ししなければと思ってました」
仙蔵の真っ直ぐな視線。今までに見た事の無い、顔。そう、まるで。とても、純粋な目をしている。仙蔵にこんな特技があったなんて知らなかった。大胆不敵に笑うあの仙蔵にこんな純粋な顔が出来たなんて。
「兵太夫。それから立花さん。わたくしは大川学園の忍び見習いです。これは間違いありません」
「でも、姉上――」
「兵太夫、姉上のお話を最後まで聞いて」
「はい……」
学園の先輩、それも六年生が居るというのにこの甘え振りは異常な気がする。それだけ、兵太夫は私に会えなかった事が寂しいと思っていたのだろうか。苦笑交じりに兵太夫の頭を撫でながら、私は仙蔵の視線を逸らしつつ、話を続ける事にした。
「でも、ただ入学するだけでは面白くないと思って、入学当初にお爺様に許可を貰って、ある事を学園長先生にお願いしてみたの」
「ある事とは」
「偽名を使って、別人になるということです」
「成程。道理で見付からないわけだ。学年すら誤魔化していると」
「はい」
兵太夫だけを見ていては訝しまれてしまう。ちょっと嫌だけど、仙蔵へも目配せする。小さく笑ってやると、今度は仙蔵に視線を逸らされた。それも真顔で。仙蔵だって、仙子の時に笑顔振り撒いているでしょう。それと同じ事をしただけなのに、そんな青褪める事ないと思うんだけど。これは気付かれてしまったという事なのかな。今だけ、兵太夫が居るから合わせてくれているだけなのかもしれない。ああ、後が怖い。何て言われるんだろう。
「じゃあ、姉上とは学園で会えないという事?」
「いいえ。兵太夫がわたくしを見付けてくれさえすれば、何時でも会ってあげる」
「本当に!」
泣きそうな兵太夫の顔が途端に明るくなる。私は兵太夫のこの笑顔が好き。よしよしと頭を撫でてあげれば私の腰回りに腕を伸ばしてぎゅっと抱き着いてくる。
「ええ、本当に。わたくしの変装を見破る事が出来たら、兵太夫のお願い事を一つ聞いてあげるわ。でも、他言はしないでね」
「だったら、ぼく、頑張る! 姉上の変装を見破る事が出来たら、ぼくに接吻してね!」
「ええ、良いわ。せ――、ってよくないでしょう!」
行き成り何を言い出すの、兵太夫。私、そんな子に育てた覚えは全くないのだけれど。私の膝に頬を預けながら上目遣いに、過去、どこかで見た事がある笑みを浮かべる兵太夫。ちょっと、作法委員長、私の兵太夫に何した。あの純真無垢で可愛い兵太夫が、意地の悪い笑みを浮かべている。意地悪い笑みでも兵太夫は可愛いものだけど。
「兵太夫、早いもの勝ちだぞ」
「立花先輩には負けません!」
「何、せん――た、立花さんまで――」
「仙蔵と呼んで欲しい。私も貴女をみつねと呼ばせてもらう」
ねえ、気付いてるの。気付いてるんだよね、それ。気付いていないで言ってるんじゃないんだよね。態となんだよね。ねえ、仙蔵、頼むから、気付いていながら遊ぶのは止めて。