二つの果実は転がり。





 Sweet Fruits





 少し大量に買い込み過ぎだっただろうか。大きな紙袋にふんだんに詰まるリンゴを眺め、街路を行く女性名前はその重さに溜息を漏らした。酸味と甘さを兼ね揃えたリンゴを見付け、これでパイを作ったならばどんなに美味しい事だろう、そう思い立った名前は紙袋に入るだけリンゴを購入したのだ。これが失敗だった。名前はこの街にある高級ケーキを扱う店に勤めるパティシエである。店で一流の腕を持つ彼女の作ったケーキ食べたさに店に通う客も少なくは無い。

「ちょっと買い過ぎたかなぁ…」

 腕は痺れ、肩も痛みを訴えてき始めた名前は小さく零す。このリンゴで大量のパイを作り試作品として店に持って行こうと考えている名前は家路までの距離を時間に置き換え、後10分少々だと自分を励ました。路行く人々は己の会話や目的ばかりで名前が四苦八苦して大荷物を抱えている事には気付いていない。そのため路を開けてくれるどころか、名前の進路妨害の様に目の前に躍り出てはゆっくりとした歩行を繰り返す。後ろから蹴飛ばしてやろうか。唯一開いている両足の片方を地面から離し眉間に皺を寄せる。早く帰りたいこっちの身にもなって欲しいものだと思うが、心の中で呟く声が相手に届くわけもないと軽く頭を振る。怒りと目の前を遮る人々を蹴り飛ばしたい衝動を抑え、名前は上げていた片足を下ろし再び歩み始める。鈍行する人々に合わせては帰路に20分程掛かってしまうだろうと肩を落とした。腕の痺れもそろそろ限界だ。名前がそう感じ紙袋を持ち直そうとした時、運悪くそれに合わせたかのように歩行者が通りすがりに名前の肩へ身体をぶつけて行く。バランスを崩した名前の腕からリンゴが次々と路上に転がる。慌ててそれを防ごうとする名前に向かい、ぶつかった歩行者から冷たい視線が送られた。

「ったく、とろとろ歩いてんじゃねえよ」

 謝るならまだしも、ぶつかった事への非難を名前に浴びせた歩行者はそのまま足早に去って行く。呆気に取られた名前は口を半開きにし、転がるリンゴを止める事も忘れ去り行く歩行者の背を唖然と見詰めた。

「何て礼儀のない男…!」

 後から湧き上がって来た憤怒が名前の顔を険しくする。非礼を詫びることなく、ぶつかったせいで転がったリンゴを集める手伝いすらしない。こういった自己中心的な人間が昨今には蔓延っていると、名前は今の世を内で嘆いた。

「もう!落っことしたせいで傷んじゃったじゃない!」

 実に傷を作るリンゴ達を掻き集めながら、その一つ一つに付く傷みを見ては涙が零れそうなのを堪える。折角良いツヤを持つリンゴ達がこれでは台無しだ。必死に紙袋へ転がるリンゴを拾い集めている名前を通行人は気にも留めることなく横切って行く。面倒には巻き込まれたくない、彼等の顔は無表情だったが、そう言っていることがはっきりと分かった。人の冷たさへ感傷に浸っている暇はない。冷酷な人達はこうしている間にも転がるリンゴを物ともせずに踏みつけて行きかねない。早く拾わなくては、名前は地面に膝を付き人々の足の合間を縫いリンゴを集める。やはり大量に買い込み過ぎた。転がるリンゴの量の多さに名前はいい加減音を上げたくなった。拾っても拾っても、路に転がる赤が減ることがない。額に薄っすらと汗が滲み出した数分後、やっとのことで点在するリンゴの数が両手の指の数程に減った。

「あと…少し」

 徐々に重くなる紙袋を抱え直し、リンゴを掴んでは片手で固定された紙袋へと収める。耳元では往来する人々の足音ばかりが聞こえた。その時、名前の頭上から黒い影が落ち、掴もうとしたリンゴの所在を一瞬紛らわせる。何事か、そう思い顔を上げるとそこには一人の男性が片手にリンゴを掴み名前に差し出している姿が在った。

「…あの?」

 意味が分からず首を傾げる名前に男は手にしているリンゴを紙袋へと投げ入れた。

「早くしろ。残りが踏み潰されるぞ」

 顎でまだ路で転がるリンゴを指し示す男に、名前はやっと意を解したとばかりに表情を明るくする。

「助かるわ」

 名前の笑顔に男は頷き、再び転がるリンゴを集め始める。まだこの世の中も捨てたものじゃない。名前は心が温かくなるのを感じながら、先程までとは異なった軽い動作でリンゴを拾い集めた。男の助力もあり、転がったリンゴは元あった紙袋の中へと無事収められた。

「ありがとう、貴方のお陰で全部無事だわ」

 紙袋のリンゴを愛しげに眺め、その目を男へと向け名前は微笑む。

「礼には及ばん」

 無表情に返す男へと、名前は頬を緩めた。こうした一見冷たそうな人ほど、実際は心根が優しいことが多い。

「本当に助かったわ。この量を一人で集めきれるかどうか不安だったの」

 紙袋に詰まるリンゴへ視線を下ろし、男の助けがなければ今頃もまだこのリンゴを拾い集めるため地面を這い蹲っていたことだろうと名前は思う。名前の向けた視線の先へと男も目をやり、静かに口を開いた。

「貸せ、また落としかねん」

 その言葉に答える間も無く、名前の腕からリンゴの詰まった紙袋が取り上げられる。

「え…あの、でも悪いわ。それに家は後10分くらいで着く距離にあるの。だから大丈夫よ」
「これ以上傷を増やしてもいいのか?」

 傷んだリンゴを見せ付けてくる男に名前は二の次をつげなかった。痺れた腕ではまたリンゴを落とさないとは言い切れない。

「…私の家はこっちよ」

 引き合いにリンゴを出され即座に引き下がった名前へと男は薄く笑みを浮かべ、指し示された方向へと歩み出す。ずっと手に掛かっていた負担が無くなり、手持ち無沙汰になってしまった名前は体の後ろで手を組む。そして隣を歩く男へ小さく視線をやり、その整った横顔を見つめた。銀色の髪に映えた青い瞳が淀みなく澄み渡り、真っ直ぐと前を見据えている。通った鼻筋はより冷淡な印象を与えるが、道端でリンゴ拾いをしている自分を助けてくれた彼が最早冷たい人物だとは名前には思えなかった。乱れない様しっかりと後ろへ流された髪の毛から見るに、きっと真面目な性格なのだろう。曲がった事は何よりも嫌う性質かもしれない。名前は男の横顔を観察し、勝手な憶測に花を咲かせる。

「…何だ」

 あまりにもじっと凝視してくる名前の視線に耐えかね男が問う。

「あ、いえ。そういえば名前、聞いてなかったなって」

 あからさまに見詰め過ぎていた己を恥じながら、名前は誤魔化すかのように言う。

「私は名前。貴方は?」

 軽く首を傾げる名前へと視線を向けた後、再び前を向き直し男は答える。

「バージル」
「そう、バージルっていうのね。覚えたわ、もう忘れない」

 明るく話す名前にバージルの視線が再び向けられる。

「私、職業柄人の名前を覚えるのが得意なの。この街でパティシエやってるのよ。このリンゴも、今度お店で出す新商品開発に使おうと思って買ったんだけど、ちょっと量を考えずに買い込みすぎちゃって」

 それが失敗だったわ、と苦笑を漏らしながら名前は肩を竦めた。

「あ、良かったら今度私の作ったケーキ食べに来て。このリンゴではパイを作ろうと思ってるの。嫌いじゃなかったら、是非」

 開いた口が閉じること無く明るい声色で話し続ける名前へと、バージルは目を伏せ口元を微かに和らげた。

「ああ、そうさせて貰おう」

 快い返事に嬉々として名前は両手を合わせる。華やかな顔が一層明るさを増した。

「良かった、それじゃ腕に縒りをかけるわね。お店に出す前に、一足早く貴方には食べて貰いたいの。貴方が拾ってくれたリンゴだもの」

 今から帰ってパイを作るのが楽しみでならない。名前はそういう様に浮き足立った調子で歩みを続ける。バージルはそんな名前を見て、変わった女だ、と笑みを含み呟いた。今まで無口なバージルに対しここまで好意的に話しかけてくる女性はいなかった。無事に名前の家であるアパートメントへと辿り着きバージルから紙袋を受け取る。再び腕の中へ戻った紙袋の重さによろめきながらも名前はしっかりとそれを抱えた。

「ありがとう、拾うの手伝ってもらった上に家まで運んでもらっちゃって」

 軽々とこの紙袋を持っていたバージルに男女の力の差を見せ付けられた思いで名前は礼を言う。

「3日後にはパイが完成すると思うの。もし暇だったらまたここへ来てくれるかしら?」
「覚えていたらな」

 からかいの言葉を述べるバージルへ名前は顔を顰める。

「覚えてて。今日のお礼したいんだから。…でも、大丈夫よね。貴方ならきっと来てくれるわ、バージル」

 自信に満ち溢れた表情で言うと名前は何を思い立ったのか、紙袋に腕を突っ込みガサガサと何かを取り出す。紙袋の奥から取り出したモノをずいとバージルへと差し出すと、笑顔で名前は言った。

「これ、傷んでないリンゴ。この香りと同じ香りを頼りに3日後、ここまで辿り着くように」

 はい、と名前は強引にバージルの手中に差し出したリンゴを収めた。バージルは赤い果実と名前を見比べる。

「もし3日後来れないようならそのリンゴは食べちゃって。甘酸っぱくて美味しいから」

 そう言って名前は背を向け、振り返ることなくアパートメントの入り口へと姿を消した。バージルはあっさりと去って行った名前へと不思議な感情を抱く。赤い果実に紛れ、名前の残り香はそこに無かった。手にしたリンゴを暫し見詰めた後、バージルは3日後自分がどういう行動に移るのか想像を馳せながら帰路に着く。





 久しぶりに良い人に出会ったせいかもしれない。名前は3日を有さずして新商品のリンゴパイを完成させた。帰ってすぐに取り掛かったパイ作りに使った時間は1日と半分。バージルにパイを振舞うと約束したのは明日、まだ1日暇があった。

 ならばもう一品増やしてみようか。そう思い立った名前は早速街に繰り出し、目を引く果実を求め先日リンゴを購入した店へと再び足を向けた。バージルに生クリームは似合わないだろうな、と次に作る洋菓子に頭を捻る。今回作ったパイならば問題無いだろう。となると次も似たような路線で攻めるのが得策かもしれない。そう決めて名前が手にしたのは洋ナシだった。パイとタルト、これならばバージルにも気に入ってもらえるだろうと。

「少しは学習したからね」

 考えが足りず大量に買い込みすぎたリンゴは袋から零れ落ちた為、今回は少し量を少なめに購入した。また大切な果実達を傷つけるような真似はしたくない。とはいえ、やはりそれなりの量がある紙袋は腕に堪える。名前はしっかりと両腕に抱えた紙袋へと挑戦的な瞳を送った。一度あることは二度ある、今度こそは絶対に落とさないといった意味を含め。しかしやはり同じ過ちは繰返される。丁度、大通りへと出る曲がり角へ出た時名前の前に突如大きな壁が現れ、そこに正面衝突をしてしまった。この間の様に横からぶつかっただけならば、腕の中に納まる袋は落ちることがなかっただろう。だがそれが正面からとなっては用心深く袋を抱えていた名前にも流石に防ぎようがなかった。洋ナシが歪な形故、路上へと蛇行しながら転がる。

「悪い、大丈夫か?」

 ぶつけた己の額を気にすることなく地面へと膝を付く名前へ、頭上から声が掛けられる。どうやらぶつかったのは壁ではなく、巨躯を持つ男性であったようだ。しかし名前にそんなことは関係ない。今は地面へ落ちた洋ナシだけが気がかりだ。

「こちらこそごめんなさい。…あぁ、また傷が付いちゃうわ!」

 適当に返事をし忙しなく体を動かし洋ナシを集める名前はぶつかった相手の顔を見ることなく、人々の足をすり抜け転がる洋ナシへ意識を集中させていた。リンゴ程転がらないのと、量を考えて買ったことも加わり先日とは違いあまり苦労は強いられなさそうだ。そう思いながらも名前はいつ洋ナシが人々の足の裏へ転がり無残な形になってしまうか、不安に焦りが生じていた。

「悪かったな、俺が他所見してたせいだ」
「貴方は悪くないわ。私がもっと注意していれば――」

 言いかけて名前はふと眉を顰めた。視界の端にちらつく銀色の髪が、この間の光景と重なる。

「これで全部拾いきったと思うぜ」

 拾い集める手伝いをしてくれたであろう両腕に洋ナシを抱える男を見て、名前の顔は一瞬にして明るく輝いた。

「バージル!」

 その名に男の表情が何故か曇る。名前はそのことに気づかずまま、話を続けた。

「また貴方に手伝ってもらっちゃったわね。ありがとう」
「あ、いや…」

 バージルは言葉を濁し、ばつの悪い表情で後ろ首を撫でた。

「この間のリンゴを使ったパイは完成したのよ。今度は洋ナシを使ってタルトを作ろうと思っていたの。それをまた落っことして貴方に拾ってもらうなんて、なんだか不思議ね」

 名前の笑みに釣られる様にバージルは微笑む。今日は髪を下ろしているからだろうか。先日とは異なった印象を受けるバージルへ名前は疑問を抱く。彼はここまで屈託の無い笑みを浮べなかったはずだ。ただ髪を下ろしているせいで印象が違って見えるだけなのか。名前は不思議に思いながらも、たった一度だけ会ったバージルの人となりを自分が熟知しているわけではないだけだと思い直し、そのまま続けた。

「もうあのリンゴは食べた?」

 バージルに道しるべに、と渡した真っ赤に熟れたリンゴを思い出しながら名前は問う。

「…いや、あんたから貰った物を食べるのは惜しかったからな。まだ食べずにいつも目に届くところに置いてあるぜ」

 口元を吊り上げるバージルへ満足そうに頷く。

「そう、良かった。それじゃ明日の約束は覚えていてくれているのね。自信作なの、楽しみにしていて」

 バージルが拾ってくれた洋ナシを受け取りながら名前は言う。その様子に何か思案に耽った面持ちでバージルは暫らく黙りこくった後、善からぬ企みごとを孕んだ笑みを浮べた。

「それ、貸せよ。家まで運んでやる」

 素早い動きで名前から紙袋を奪い去るとバージルは名前の家はどっちの方向だと尋ねる。

「あ、大丈夫よ。また貴方に迷惑が掛かるわ。前も運んでもらっちゃったし」
「気にすんなよ、困ってる女を助けるのは男の特権なんだぜ?」

 茶化す様に言うバージルに、名前は思わず声を上げて笑った。先日の彼はこんなに軽い調子ではなかったのに、それがまた可笑しくて堪らない。

「それじゃ、お言葉に甘えようかしら」

 再び空いた両手を体の後ろへ回し、名前は横に並ぶバージルの横顔を見詰める。何も印象が変わって見えるのは髪が下りているせいだけではない。名前は先日と同じ顔貌でも、どこか以前の彼とは違う箇所があると感じた。そう、例えば瞳。生真面目そうな鋭い眼が、今日は柔和になっている。澄んだ青は変わらないが、光り方が違う。天気の違いで、光の反射具合が違うだけとも思えないくらいだ。通った鼻筋は冷淡な印象よりも凛々しさを与える。心根の優しさは変わらないようだが。

「不思議ね…。まるで二つの顔を持つみたい」
「ああ、俺は髪を上げるとド真面目な堅物になって、下ろすとこんなにも良い男に変わるんだぜ?」

 不意に零れ落ちた言葉に、バージルから笑みを噛殺した様子で返事がくる。名前もそれに合わせ微笑んだ。

「変な人、二重人格なの?」
「似たようなもんだな。まぁあまり気にする程のことじゃないぜ?あの日は丁度髪を上げてただけだからな」
「気分により上げ下げしてるとか?不思議な人ね」

 自分も髪型を変えるだけで人格が変わるだろうか、と名前は考えたがすぐにくだらない考えだと頭を振るった。

「それで、明日は今みたいに髪を下ろして来るの?それとも上げて来るのかしら?」
「…そうだな、あんたのお望みは?」

 逆に問われ名前は顎に片手を添えた。そして先日の彼と今の彼を比べ、小さく頷くと口を開く。

「どっちも選べないから、選択権は貴方に委ねるわ。私、この間の貴方も今の貴方も好きだもの」

 無垢な笑みにバージルは拍子抜けを食らったように目を丸くする。ここまで素直に思った事を口に出す人間は今の世、稀と言っても過言ではない。

「ならどっちで来るか、明日まで楽しみにしておけよ」
「ええ、どちらの貴方に会えるのか楽しみにしておくわ」

 辿り着いた家の前で、二人は笑みを交わす。いつの間にか、楽しく会話をしている内に名前の住むアパートメントへと着いてしまったようだ。再びアパートメントへと姿を消す前に、名前は受け取った紙袋から一つの洋ナシを取り出した。

「リンゴだけじゃ不安だから、これも受け取って。二つあれば良い道しるべになるでしょう?」

 甘い香りを醸し出す洋ナシを受け取り、バージルは礼代わりに名前の頬へキスをした。

「OK、ココへのキスは明日まで取っておくことにするぜ。My sweet」

 指でふっくらとした名前の唇をなぞると意地の悪い笑みを浮かべバージルは背を向ける。洋ナシを投げながら歩くバージルの後姿を見詰め、名前は放心状態で口を半開きにさせた。

「…髪を下ろしただけであんなに豹変するものなのかしら」

 不思議。そう呟きながら名前はアパートメントへと向って行く。甘い言葉を囁かれた後に作られたタルトは僅かな酸味を残し、舌が溶けるほどの甘味を与えるものになった。





 翌日、名前の部屋の呼び鈴が鳴り響く。丁度約束していた時間にピッタリだ。リンゴのパイと洋ナシのタルトが並んだテーブルの脇でティーカップを準備していた手を止め、名前は玄関へと向う。

「はーい、今開けるわ」

 小さな足音をさせ、玄関の鍵を開け扉に手を掛ける。

「いらっしゃい、バージル」

 奥から覗いた人物へと笑みを見せ、名前は中へと招き入れる。今日までのお楽しみだった彼の髪は上がっていた。

「丁度お茶を淹れていたところなの。良いタイミングで来てくれたわ」

 椅子を勧めながら名前は明るく言った。

「部屋中に甘い香りがするな」

 腰を下ろしたバージルが静かに室内を見渡しながら呟いた。その言葉に名前は小さく笑う。

「毎日お菓子作りしてるとどうしても、ね。私自身から甘ったるい香りが放たれてるくらいよ」

 くすくすと笑みを零しながらティーポットから紅茶を注ぐ。淹れたての紅茶を差し出し、名前はバージルの正面の席へ座る。

「…今日は髪を上げているのね。これでパイとタルト、どちらから先に出すか決まったわ」

 繁々とバージルを眺め、頬杖をつきながら名前は頷いた。そしてパイを一切れ皿に取り分けるとそれにフォークを乗せ、バージルの前へ置いた。

「髪を上げてたらパイって決めてたの。リンゴを拾ってくれた時は、髪を上げていたでしょう?」
「髪型で出す方を決めていたのか」
「そう。だってどちらも力作で最初に食べて欲しかったのよ。一度に両方は無理でしょう?だから今日の貴方の髪型で決めようって考えてたの」

 パティシエとして最高峰の腕を持つ名前の作ったパイを見詰め、バージルは徐にフォークを手に取る。

「…お前は髪を上げた俺と下ろした俺、どちらが来る事を望んでいたんだ?」

 小さく問われた言葉に名前は目を瞬かせる。

「どちら、って言われても…。両方なんて無理な話でしょう?昨日も言ったけど、私はどっちの貴方も好きなのよ」

 今日みたいな真面目そうな彼も、昨日みたいな軽い調子の彼も。手掛ける洋菓子と同じ様に、それぞれに良い味、良い所がある。それが魅力的なのだから、優劣を付けることは出来ないのだ。名前の答えに満足したのか、バージルは軽く笑むとフォークでパイを一口大に切り口へ運んだ。

「少し、甘いな」

 咀嚼する様を緊張しながら見詰めていた名前は、開口一番の感想に眉を下げた。砂糖を入れ過ぎだっただろうか。いや、そんな筈は無い。そんな押し問答を内の中で繰り返す。そんな名前の考えを読み取ったかのように、バージルはフォークを置くと落胆の色に染まった名前へと視線をやり言った。

「だが、それが丁度良い」

 下がっていた眉尻がその言葉にゆっくりと上がって行く。そして落胆と入れ替わり安堵の表情が名前の顔を占めた。

「良かった、口に合わなかったらどうしようかと不安だったの」

 緊張で乾いた唇を潤わす為カップに口を付け紅茶を飲む。一流のパティシエと呼ばれるようになって日は経つが、それでも味の感想を待っているこの瞬間はいつになっても緊張するものだと名前は浅く息を吐いた。バージルは心から安堵している名前を見て僅かな嗜虐心が芽生える。

「力作じゃなかったのか?」
「…意地悪ね。力作だからこそじゃない。それに作り手というのはいつでも出来上がった物に対してどんな感想がもらえるか、不安を抱くものなのよ」

 拗ねたように唇を尖らせる名前にバージルの口元が緩む。

「そんな顔をするな。女の身であることを自覚しているのならな」

 伸ばされた手の指が、仏頂面になっている名前の唇へと触れる。その指に反応し、昨日言われた事が名前の頭を横切る。

「……今日は、ココにキスするの?」

 名前の言葉にバージルの眉が微かに動く。

「今日は、とはどういう意味だ」

 唇に触れていた指が離れ、怪訝そうに青の瞳が名前を見返す。

「昨日言ってたじゃない、ココへのキスは明日まで取っておくって。…本当に二重人格なの?」

 昨日の事すら覚えていないのかとばかりに名前はバージルの顔を下から覗き見る。二重人格者は人格が入れ替わっている時の記憶を有さないという。バージルは本当に二重人格者なのかもしれない。名前は本気でそう考えた。

「あいつはそんな事を言ったのか…」

 バージルの呟きにやはり、と名前は思う。二重人格者かと尋ねた時、似たようなものだ、と答えたのはそれが本当だったからなのだろう。今バージルが"あいつ″と言った相手は、もう一人の自分なのだ。

「ねぇ、バージル。やっぱり貴方、二重人格――」
「おいバージルッ!!」

 名前の言葉を遮り、室内に大きな罵声が響き渡る。その声と共に盛大な足音が聞こえ、それが徐々に近付いて来たかと思った瞬間、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

「抜け駆けしてんじゃねえよ!この変態野郎ッ!」

 壊れたのではないかと思わせるほど力強く明けられた扉の奥から現れた人物に名前は目を見張った。

「…え、何…?これって、どういうこと…?」

 目の前の席に着く男と、今しがた扉を開け入って来た男の両名を代わる代わる見詰め名前は唖然とした。

「バージルが、二人…?」

 信じられない光景に名前は目を何度も瞬く。バージルのもう一つの人格が実体化してしまった。そう思いながら。驚愕する名前とは打って変わってバージルは落ち着いた様子で話す。

「昨日奴に何を吹き込まれたかは知らんが、あいつは俺ではない。不幸な事に血の繋がった弟だ」
「son of the bitch!不幸なのはコッチだぜ」

 罵り合う二人を今だ呆然と見詰め、名前は回転の鈍った頭で答えを導き出した。

「…双子?」

 そっくりな顔を見比べ言う名前に、二人が忌々しそうに互いを睨みつけながら頷く。

「やだ、私てっきり…」
「二重人格者だって?」

 羞恥心に両手で口元を覆い頷く名前へとバージルの弟が近寄る。

「本当、今時珍しいくらい素直だな。簡単に人を信用するのは止めた方がいいぜ?その内オオカミに食われちまうぞ、赤頭きんちゃん」

 ニヤニヤと笑みを浮かべる弟に、バージルの殺気立った視線が突き刺さる。

「ダンテ、それ以上名前に近付くな」
「うるせぇお兄ちゃんだ。一人美味しいところを持って行こうとしたあんたに言われたくないね」

 バージルの言葉を意に介した様子も無く、ダンテは名前の肩に手を回すと無防備な項へと口付けた。

「おっと、今日はココを頂きに来たんだったな」

 言うや否や、俊敏な動作で顔を傾けると名前の赤い果実へとダンテは喰らい付いた。

「んっ!」

 突然の事に目を丸くする名前を見て、バージルの感情が爆発する。

「貴様…!」

 腰に挿してある刀を抜き、ダンテの首目掛けて太刀を下ろす。だが寸でのところでダンテはそれをかわした。

「落ち着けよ、バージル。いつもの冷静さはどこに行ったんだ?これくらいで怒るなんてあんたらしくないぜ」
「ふざけるな。勝手に俺の名を語った事に対しても、俺はまだ貴様を許していない」
「名前の一つや二つ、語ったところで何だって言うんだ」

 あくまで好戦的なダンテに名前は喧嘩をするなら外でやってくれ、とばかりの表情を浮かべた。この二人の喧嘩は世間一般と同じ類のものではないと、放たれる空気で察した。

「見ろよ、あんたがそんな殺気立った顔するから名前が怖がってるじゃねえか」
「貴様なぞにキスされた衝撃が大きいのだろう」
「嫉妬か?最初に名前に目を付けたのはあんただもんなぁ。けど残念だな、あんたの負けは決定だ」

 そう言いながら、ダンテは再び名前の肩に手を回す。抱き寄せられた名前は双子に挟まれ困惑しきっていた。

「あの…紅茶冷めるわ…」
「その手を離せ、ダンテ。それとも手首を切り落とされたいか」
「会った最初の時に手を付けておかなかったあんたが悪いんだぜ、バージル?まぁ先に手を付けられてようが横から奪うのみだけどな」

 自分の言葉を無視して繰り広げられる兄弟喧嘩に名前はどうしたものかと溜息を吐く。ここまで自分の感情を表に出して喧嘩できるのだから、この二人はかなり仲が良いのだろう。頭上で行き交う罵声に耳を傾けながら、名前は双子よりも冷め行く紅茶を心配した。ティーポットの中身は今頃出涸らし状態だと思いぞっとする。渋い紅茶は苦手だ。

「名前」

 ティーポットを見詰め、どうか渋くなっていませんようにと念じていた名前は突然名前を呼ばれ、ハッとし顔を上へ向ける。すると肩を抱いていたダンテの手の温もりが無くなり、それに変わり唇へと温もりが与えられた。再びキスされたことへの驚きより、相手がどちらなのかわからず名前は混乱する。大きく見開いた瞳に入る銀色の髪だけでは、判断材料には不十分であった。

「…馬鹿にキスされたままではお前にまで馬鹿が移るからな」

 唇が離れた直後に告げられた言葉に、ようやくキスしていた相手がバージルだと気付く。

「やってくれるじゃねえか、バージル。本気で俺と張り合うつもりか?」

 バージルに殴り飛ばされていたのだろうか、片方の頬を若干赤くしたダンテが怒りに顔を歪めていた。

「貴様如き、張り合う対象にもならん」
「へぇ、ならそれが本当かどうか…試してみるか」

 ホルスターから二丁銃を出すダンテを見て、名前はこめかみに冷や汗を浮かべた。兄は刀、弟は銃。このままではこのアパートメントが崩壊してしまうだろう。名前はアパートメントが崩壊した後の事故処理を考え身の毛が弥立った。損害賠償にどれくらい請求されるか考えるだけで頭が痛くなる。事が起こる前に止めなくては。

「ちょっと二人共!」

 大きく張り上げた声は勤めている洋菓子店の売り子も驚く程よく響き渡った。バージルとダンテが名前の声に反応し顔を向けたのを確認すると、名前は軽く溜息を吐いた。

「私、今日は二人にお礼がしたくて呼んだのよ。喧嘩するほど仲が良いのは分かるけど、このままだと折角作ったパイもタルトも無駄になっちゃうわ」

 誰と誰が仲が良いって?そう言いたげな二人を無視し名前は立ち上がると双子達の肩を押し席に着かせた。

「バージルはパイ、ダンテはタルト。喧嘩は食べた後よ」

 無理やり隣同士に座らされた双子達は互いを威嚇しながらも、言われるままにパイとタルトを口へ運ぶ。最初は険しい表情だった二人も、名前の手掛けたパイとタルトを食べ進めるうちに次第に尖らせた神経を穏やかなものへと変えていく。

「美味しい?」

 尋ねる名前に二人は互いに顔を見合わせ、いがみ合いは一時中断だと言う意味を含め名前へと微笑んだ。そして二人は身を乗り出し、挟むようにして名前の頬へ口付ける。


 「You're sweet fruit」





 二つの果実は転がり、辿り着いた先は甘い誘惑。