静かな時の流れる場所があるとするならばそれは忘らるる都の一角。遥か昔に滅びた都市は今では廃墟となり、嘗ての華やかさは見る影もない。
時が死んだ場所。
ただここにも唯一時の流れを感じさせるものがある。水の祭壇へと続く道の手前に存在する水面、光を反射するそれには緩やかに時が生きている。ここだけが生であり、それ以外は死である。そんな奇妙な場へ足を踏み入れた人々の心を、ざわめかせ惑わせる。人々にとって生と死は同時に存在することのないもの故、心の均衡は酷く揺らぐ。
だがそんな場所に訪れる酔狂な人物もいる。目的があって訪れたであろう女性の目は何物にも揺るがず、踏み出す足に迷いはない。外の世界とは画一されたその場にある時の生と死に動じることなく、それが当たり前だとでもいうように彼女は真っ直ぐ歩いていく。彼女の目的地は生の場、そこへ辿り着くなり彼女は強い意志の篭った瞳をそっと伏せた。目を伏せる彼女の表情からは何の感情も読み取れない。まるで故意的にそうしているかのように、微かな感情の欠片すら彼女からは見られない。
死の時が彼女の体に侵食し、生の時が彼女の体を包み込んでいく。相反す時間的刺激をも彼女は静かに受け止める。彼女の中には既に生も死も共に在るが為、動揺することはない。辺りに注意を払うことなく、彼女は再び歩み出し湖へと近付いていく。一閃の光芒はまるで彼女に降り注ぐためだけに存在するようだ。
その光の影に、一人の少年の佇む姿が彼女の目に捉えられる。今まで自分の目的の物以外何も写していなかった彼女の視線がその少年へと向けられ、閉じられた花唇が薄く開き空気を揺らした。
「悲しそうな顔して、どうしたの?」
彼女の透き通るような声に、少年の顔が上げられる。
「…誰?」
暗がりにでも明るく光を湛える銀色の髪が、少年が振り返る動作と共に揺れた。少年の下へと歩みながら彼女は続ける。
「違うわね。悲しそうじゃなくて、寂しそう」
冷たさの中に温かさを蔵するような微笑に、少年の顔が訝しげに歪んだ。少年は目の前に立つ女性の正体を探るような視線を絶え間なく送り続ける。それを無視して彼女は微笑を引かせると自分の目的を果そうと少年の下から離れる。声を掛けてきたのにも関わらず返答がなければ相手に興味を失う女性に苛立ちを覚え、少年は尋ねた。
「ここに何をしに来たの」
少年の想いは奏功し彼女の意識が再び少年へと向く。彼女はひたすらに自分を見つめる少年に再び薄く微笑むと答えた。
「ここに私の大切な人が眠っているの」
片手に携えている花束を軽く掲げて見せると、彼女はそれを軽い動きで湖へと放った。弧を描き着水する花束を彼女に倣って少年も見据えた。放られた花束は水面に浮かんでいたのも束の間、徐々に水分を吸収し湖と同化して水底へと沈んで行った。これは弔いなのだろうか、少年は花束が消えた水面から女性へと視線を移す。湖を見つめる彼女の横顔からは何も見て取れない。
これが弔いならば、ここまで冷淡な表情ではなくもっと暗然たる面持ちでも不思議ないはずだ。先ほど大切な人が眠っていると言ったことが嘘のように、花束を放った彼女からは何も感じられない。畢竟、大切な人というのは言葉だけを繕ったものなのか。少年は女性へ対する猜疑心を忘れ、ただ常人にはない雰囲気を持ち合わせたこの女性に興味を抱く。未だに彼女の顔からは冷たい微笑しか見られない。
「大切な人という割には随分あっさりしてるんだね」
皮肉とも取れるような言葉を少年は女性に投げかけた。聞こえは悪いが少年にとっては自分の疑問を飾らず言葉にしただけだった。彼女にはそれがわかっているかのように、平然とその言葉を受け止めた。
「形だけの弔いだからね。ここにあるのは肉体という器だけだから、この弔いだってある種意味を持つことではないわ」
「意味を持たないとわかっていて、わざわざこんなことをしてるの?」
少年の声には嘲笑の色が滲み出ていた。しかし、それでも彼女の心が揺らぐことも無い。
「ええ。器とはいえ一度は魂、精神、意識、色々呼び名はあるけれど、それらを宿していたものだからね。双方の繋がりはライフストリームへと還って行った後でも根強いのよ。だから形だけでもこうして弔えば、きっとあの人にも届くはずだから。それに届いていなくてもいいの、これは私の自己満足でやっていることだしね。届いていると思ってこうして弔うことは、自分への弔いなのよ」
「…無駄だとわかっていてやっているってこと?」
「簡単に言えばそうなるかしら。けれどライフストリームに還った意識がどうなるかなんて誰にもわからないことでしょう?もしかしたらあの人にこの弔いを通じて私の声が届いているかもしれない。勿論、届いてないかもしれないかもしれない。どっちでもいいのよ。つまるところは私次第なんだから。これが無駄かどうかも、判断するのは私だしね」
湖を見つめていた彼女の瞳が少年へと向けられる。その瞳が強さを湛えており、少年は微かに身震いした。こんな風に何かに対して恐れを抱いたことなどなかった少年は、初めて内に芽生えた感情に違和感を覚えると共に好奇の気持ちも増大する。少年カダージュが出会った女性の名は名前と言った。
カダージュと名前が出会った日から随分経つ。あの日から名前は毎日忘らるる都に訪れていた。目的は彼女の大切な人への弔いである。
しかし、それだけではないことにカダージュは気付いていた。まるで義務のように花束を湖へと手向ける名前は、決まってその後数時間はカダージュへ他愛も無い話をしていく。特にカダージュが芳しい返事を返すわけでもないのに名前はただひたすらに話をしていった。名前が一方的に話をするだけで、カダージュのことに関して深く詮索しようという素振りもない。それがカダージュに違和感の種を植え付けた。
毎日花を手にここへやってくるのは何も名前の言う大切な人の為だけではない。名前はそれを口実に自分に会いに来ているのだとカダージュはわかっていた。毎日会いに来るほどに自分のことが気になっているのにも関わらず、名前は一切そういった話題に触れてこない。普通ならば気になる相手の素性を知りたくなるものではないかと、カダージュは隣に座る名前を見て思う。名前という人間が推し量れない。それがカダージュに焦りに似た何かを抱かせる。
「名前は何で毎日僕に構うの…」
ふとした瞬間にカダージュの口から疑問が零れ落ちた。ずっと気になっていたものの、面と向かって聞けずにいた問いだった。そしてカダージュはその問いの確かな答えが欲しかった。答えを得なければ胸の蟠りは取れないだろうと。名前はカダージュへと顔を向け、何かを考えるようにゆっくりとした動作で瞬きをすると口の端を柔らかく上げた。
「私の大切な人に似ているから」
穏やかな表情の名前とは反対にカダージュの顔はその答えに歉然と歪んだ。
「大切な人って、この湖に沈んでるっていう人だよね。その人に僕が似てるっていうの?」
「その人とは別の人。ここに眠っている大切な人を殺した人よ」
名前の言葉にカダージュは眉根を寄せた。
「大切な人に大切な人を殺されたってこと?」
何とも言葉として現すとややこしいこと極まりない事実に、カダージュは笑いが込み上げてくる。しかしそれも名前の暗く沈んだ顔を見るや内に広がる可笑しさは吹き飛んだ。
「…なんでその人はここに眠る人を殺したの?」
この程度の質問なら許されるだろうとカダージュは問う。
「簡単に言えば、邪魔だったから、かな。彼は邪魔者全てを消し去ろうとしていたから。その中に、私も含まれていたわ」
両手を握り合わせる名前は、目の前に広がる水面のように嫋やかな声色で語る。
「寂しい人だった。誰にも頼らず一人で何もかも背負い込む癖があって、あの人の中には誰も入れなかった。一人で生きていこうとする姿がまた痛々しくて、本当は孤独は嫌だと叫んでいるように感じていたわ。特にあの瞳が、寂しさを宿していた」
そう言うと名前はカダージュの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの瞳にも、寂しさが宿っている。だから私はあなたを放っておけなかった」
吸い込まれるような名前の瞳の深さにカダージュの顔が強張る。包み込むような強さを持つその瞳は美しくもありその反面恐ろしさも感じさせた。名前の近くにいては何かが壊れてしまうような予感にカダージュは恐ろしさを感じているのだと思った。
透き通るような声も、冷たいようで温かい笑みも全部なぜかその裏に恐ろしさを兼ね備える。その恐ろしさの根源にあるものの正体を薄い認識層で既に捉えているが、カダージュにはそれを認められるほどの余裕がまだなかった。
「最初にも言ってたよね、寂しそうな顔を顔をしてるって」
名前は無言で肯定の意を示しカダージュの次の言葉を待つ。
「僕は寂しくなんかない。そんな風に思ったことは、一度もない」
言葉には魂が宿ると言うのは迷信ではない。この時カダージュはそう感じた。寂しくないと断言したことにより、自分の内から強さが沸いてくるようだ。今この時ばかりは名前から与えられる恐ろしさも姿を忍ばせている。寂しくなんかない。暗示をかけるようにカダージュは自身の中で再び呟いた。仮初めの強さを得たカダージュへ疑心の目を向けながら名前は言う。
「あなたに似ているといった人は、寂しい瞳をしていたけれど一人で生きていこうという意志が感じられた。だから私はあの人から離れたの。でも、あなたからはそれが感じられない。あの人とあなたは似ているけど、あなたは一人で生きていくには辛い、そう言っているように私には聞こえたわ。けれどそれは私の勘違いというわけね」
いつも穏やかな顔貌と対になっていた名前の微笑が僅かに翳る。その笑みにカダージュの心が針を刺したかのように痛んだ。
寂しくはないと虚勢を張ることで名前を傷つけたのではないかと心配になる。だがそんな思いはすぐに名前を傷つけたところでなんでもないことだという考えから払拭させる。たかが数日の間話を交わしただけの仲ではないか。それに話をしていたのは名前だ。自分から話かけたわけでも、名前の話を求めたわけでもない。名前を傷つけたところで自分が後ろめたい気持ちになるなどお門違いだとカダージュは自分を正当化した。大体、大切な人に似ているだか知らないが、それだけで変に構われるのは迷惑だ。
傷つけることで突き放すのが一番だったのだと、横目で名前を見ながらカダージュは更なる追い討ちの言葉をかけようかと口を開きかけた。だが先に名前の方が動き出し、カダージュの口は何の言葉を紡ぐこともなく行き場を失い静かに閉じられた。おもむろに立ち上がった名前は衣服に付いた汚れを手で払い、一度湖を見つめた後カダージュへ視線を移した。
「ごめんなさい、私の勝手な思い込みであなたに迷惑かけちゃって。もうここにも来ないわ。元気でね、カダージュ」
先ほど見せた翳りは見間違いだったのかと思うほどに平生通りの微笑を浮べる名前にカダージュは眉根を寄せた。そんな簡単に割り切れる想いで自分に会いに来ていたのかと、厳しい言葉を投げかけてやりたくなる気持ちをひしと抑える。
名前はもうここに来ないと言った、それだけで十分だ。やっと煩わしい存在から解放されるのだと、カダージュは去り行く気配を背で追いながら浅く息をついた。これでずっと抱き続けていた恐れから免れられる。そして恐れの根本にある真向かいたくない感情に神経を張り巡らせなくていいのだ。
妙な解放感がカダージュの心身を包む。解放されたのにも関らず、どこかで名前に囚われたままのものが正常な解放感を与えないと知りつつも、カダージュは敢えて目を逸らした。
名前が忘らるる都から姿を消してから数日が経つ。相変わらずこの湖以外は死んでおり、時間の流れは唯一生を宿すこの水面からしか感じられない。
カダージュは死の一部に飲み込まれ虚ろな存在と化していた。時の死したこの場に馴染み始めているのだ。以前は光なくしても輝きを湛えていた銀色の髪が、今では暗がりに溶け込み黒く染まっている。カダージュの心もまた、美しい銀色の髪同様漆黒の闇に包まれていた。
あの日、名前がここから姿を消した日。あの時のカダージュは安堵感で満たされていた。自分の領域を害す存在を排除し、再び静寂を手に入れ解放感で一杯であった。何人足りと自分の中に入れないことで保っていた自己が名前と出会い揺らいだが、再び一人になることで確立することができた。
カダージュは他人と馴れ合う日々を求めてはならなかった。彼には目的があり、それは他人に干渉されては実を結ばぬものだからだ。ひたすらに本能の赴くまま、足りない細胞を得ることだけを考えなくてはならない。完全体になる為には、他に意識を回すことなくそれだけに集中しなければならないのだ。
しかし、カダージュの意識は名前によって掻き乱されている。彼女が姿を現さなくなってから自身が朧な存在になりつつあるのを感じていた。たった数日の間共に過ごした名前が欠けただけで、カダージュの中には無気力さばかりが募っていく。何をする気にもなれなく、本能が求めていたものすらも頭の中から消えつつあった。
「名前、僕は…」
深い瞳に見つめられ冷たくも温かい微笑を向けられ、抱く恐れの根本には不安があった。名前を求め、荀風に依存し、その後に待っているものは不安。自分の全てを名前に傾倒させることによって得られる安らぎの代償として常に付きまとうのは不安なのだ。いつ名前が自分の下から離れていってしまうか、そういった虞が恐れとなり、カダージュを苛み名前を突き放すことでそれから逃れようとしていた。だが突き放した挙句、待っていたのは以前にも増した寂しさばかりだった。
本当は寂しかった。存在意義も見いだせず、ただ導かれるままに動く操り人形である自分が哀れでならなかった。自分のことを一人の人間として見てくれる存在が欲しくて、悲しみに明け暮れる日々から脱却したいと切望していた時に名前が現れた。光芒を湛え、自分に声を掛けてきた名前は見た目通りまさに救いの光そのものだった。人目見ただけで自分が寂しいと叫んでいることに気がつき、寂しさを彼女の強さで包んでくれた。
やっと求めていた人に会えたのだと、心の奥底でカダージュは安らぎを感じていた。けれどもいざ名前に寂しそうだと言われた時、変な自尊心が働いてしまった。あの時のカダージュはまだ己の中にある不安と真向えず、寂しさを抱いていることを素直に口に出せなかった。虚勢を張り寂しさを否定することで、己の自己を崩壊させないようにしていたのだ。今となっては、その自己というものが操り人形という自分に求められた自己だったということに気がついた。一人の人間としての自己を確立するには寂しさを認めなければならなかったのだと。
カダージュは名前を欲した。もう二度とここには来ないと言った彼女を、膝を抱え押し寄せる不安を蔵しながら求めている。鬱積した感情の捌け口などなく、こうして死の時と同化したように身を縮めるのみだ。
「名前、僕は寂しいんだ…」
届かない言葉に意味はない。呟いたところで空気を揺らすだけで他に何が起こるわけでもない。カダージュはそのことに悔しさに似た苛立ちを抱き、硬く目を瞑った。
この状況を打破できない自分が情けなくて仕方なかった。自分には何でもできると思っていたからこそ、その想いはひとしおだ。一人で生きていける強さなど持ち合わせていなかったのだと、カダージュは時間は掛かったが認めることが出来た。もう少し早く認められていれば、名前とこうして決別することもなかったのだろう。何もかも、遅すぎた。カダージュは両手で顔を覆い、脳裏に名前の姿を思い描く。鮮明に描ける名前の微笑。もう一度、あの微笑に会いたいという思いを強くする。
「カダージュ」
透き通るような声でもう一度名前を呼んで欲しい。素直になるから、また会いに来て欲しい。
「カダージュ」
顔を覆っていたカダージュの両手に、柔らかな感触が舞い降りる。カダージュは顔を上げ、碧色の瞳を大きく開いた。久しぶりに見る光が眩しく、瞳孔が急速に縮まる。
「…ごめんなさい。もう来ないとか言ったのに、どうしてもあなたのことが気になって」
「名前……」
目の前に立つ名前の姿に驚愕し、カダージュは掠れた声で名前の名を呼んだ。
「ダメね、一度大切な人を失っている恐怖からか、あなたを一人にさせておくことができなかった。迷惑なのはわかってる。けどなぜかあなたが苦しんでいるような気がして、気がついたらここに来ていたわ」
数日ぶりに見る微笑みは変わることなく名前の顔にあった。それが、カダージュをひどく安心させた。
「名前、会いたかった」
切実に名前を求めていた想いがカダージュにいとも容易く素直な言葉を紡がせた。
「あの時は自分を偽ってたんだ。本当は、寂しくて仕方がなかった」
今にも泣き出しそうなカダージュの表情に、名前は微笑みに温かさを増し両腕を差し伸べた。カダージュの体が名前の温もりに包まれる。
「もう大丈夫よ。私があなたを離さないから。あなたに寂しい想いはさせないから」
「独りは嫌なんだ…。名前、ずっとこうしていて…」
名前の背に回した腕に力を込め、カダージュは寸分足りと名前から離れないように抱きつく。温かさがカダージュの中に根付いていた不安を溶かしていく。人の温もりがここまで心地良いものなのだとカダージュは初めて知った。
「名前、僕には名前が必要だ…」
「寂しくなったらいつでも抱きしめてあげるから、だからもう不安にならないでカダージュ」
捜し求めていた人と出会い、死した時が命の息吹を芽生えさせる。
静かな時が流れるこの場所で…。