天啓なんかいらなかった

 気付けば五百年が経っていた。玄英宮から見下ろす大地の碧さに満足そうに目を細めては、六太は一つ溜息を吐く。長かった。五百年経つ今でもまだ足りないものが多くある。だが、尚隆を連れて来たあの日に見た大地に比べれば。

「大したもんだよなあ」
「ええ、本当に。見事な山野ですね、台輔」
「六太でいいって言ってるだろぉ」
「それは凌雲山を降りてからです、台輔」

 いつしか紅蓮は六太にとって友と呼べる関係にあった。
 紅蓮は尚隆がひょっこり連れて来た娘だった。男の装いで妖魔狩りを生業に生きてきた紅蓮は、学を欲していた。尚隆も関弓を中心とした国の畑となる少学や大学の有様を知りたく、都合の良い紅蓮を迎え、改革の一歩にしたのだった。尚隆に従犬という字まで与えられた紅蓮の働きぶりは確かなもので、年々、質の良い官吏が輩出されるようになった。内側からの改革に大きく貢献したのが紅蓮だった。今は夏官に属している。
 友と呼ぶようになったのはいつからだっただろう。ふと六太は振り返ってはみるものの、だいぶ前のことは思い出せず。

「紅蓮が俺の名を呼んでくれるようになったのはいつからだったかなー」
「……いつからだったでしょうね。何十年か前だった気がしますけど」
「なあ、あの時みたいに撫でてくれないか」
「覚えていらっしゃるではないですか」
「何年くらい前かを忘れただけで、何して親しくなったのかはちゃーんと覚えてるだけさ」
「……聞こえによっては勘違いされかねない言い方ですよ、台輔」
「今は俺と紅蓮の二人きりなんだから、名前で呼んでくれたって良いだろ? な、ほら」

 紅蓮の表情は至って腑に落ちないものだが、そっと伸ばされた紅蓮の手は六太の頬に触れ、するりと顎先に向かって優しく撫でた。擦り上げるように、だが肌を包み込むように、何度と撫でられる。これが六太にとって心地好いもので、六太の瞼が次第にうとうとと閉ざされていった。

「紅蓮の手、気持ち良いな」
「そうですか」

 くすりと笑う声がした。その紅蓮の声が六太の胸内を落ち着かせる。
 もしも、麒麟ではなく人であったならば、紅蓮との関りはどのようなものになっただろうか。ふと考えることがあった。麒麟は天啓を受け、王を選ぶ。故に人ではない。胎果の六太は少なくとも生まれて四年程は蓬莱で人として生きていた。天啓が全てではない。けれど、尚隆と出会う前に紅蓮と出会っていたら、人の心を持ったまま出会うことが出来たのではないかと、ありもしないことを思ってしまうのだった。麒麟は麒麟でしかない。生まれた時から人ではないのだから、人であろうとは思わないものなのだ。
 尚隆を前にした時、天啓なんかいらなかったと思った。それは尚隆を王にした後も度々思ったことでもある。だが、その時とは違う形に出来ない何かが六太の中に既に芽生えていた。

「紅蓮」

 得難い絆であることは確かなのだが、六太は言葉にすら言い表せないそのもどかしさを別の形で埋め合わせようとした。触れる紅蓮の手を取って、見下ろしてくる優しい紅蓮の眼差しを真っ直ぐと見上げ、そして乞う。乞うことが出来るのも、紅蓮が名を呼ぶ度に照れては嬉しそうに微笑むからだ。

「名を呼んで欲しいんだ。小さくていい。なあ、頼むよ」