セリノスの悲劇から十年が経った。ベグニオンに面した森は今となっては荒野とも呼べる程に焼き払われ、生気を失くしたままの状態らしい。僅かに残る木々も、青々としていた葉は陰りを見せたまま変わらず。十年経った今も尚、森に生命が吹き戻ることは無いとのことだが、私はこの目で見るまでは――と、信じることが出来ないでいた。
呪歌さえ謡えれば。と、何度と思うものの、今の私にはその力は無い。故に父を目覚めさせることも出来ない。焼かれた森の炎気と負の気配に中てられた身体は、十年という年月を経ても完全に癒えたとは言えなかった。羽を伸ばし、少し遠くまで飛べるようにまでは癒えたものの、以前と比べてしまうと頼り無い。情けない。軟弱だと認めざるを得ない己の身体が私は嫌いになりつつあった。近くの木に寄り掛からねば保てない体力の無さにも、悔しさが募る。私が一人で来られるのは此処――フェニキス王国の北端にある岬までだ。海を越えた先にある故郷がとても小さく見える。
まるで私だ。鷺の民を鎮魂することすら敵わない、小さな存在でしかない。私そのものだ。
「リュシオン王子、もうそろそろ戻りましょう。これ以上はお身体に障ります」
岬に吹く風は春を迎えたというのにやや冷たい。鷹の民であるティーエも、肌寒さに腕を抱えている。我が儘であることは十分理解している。本来ならばベグニオンと会す海峡に来ることは許されない。この海峡はベグニオン帝国がクリミア王国との貿易で使用している。十年前まではセリノスとガリアの境を横断する陸路もあったが、セリノスが焼かれてからというものその陸路も絶たれたのだろう。ティバーンの話によれば海峡に往航する船は以前より増えたと聞く。セリノスを焼き払った罪深きニンゲンが私の目前で素通りして行くなど、赦し難い。
「王子、帰りましょう」
「……そうだな」
鷺の民は慈悲深きものだと、皆は言う。温厚な性格がほとんどであり、白鷺である私達王族はその象徴とも呼べる程に優雅且つ繊細なものだ。と、聞く。私は私自身をそうは思ってはいない。あの日、あの時から私の腹底にニンゲンに対する憎悪が棲みついているのだ。私に鷹の民のような――ティバーンのような力があれば、ベグニオンのニンゲンを罰せるというのに。
「リュシオン王子」と呼ぶティーエの顔が目の前にあった。鷹の民の中でもとりわけ正の気質の高い者で、彼女はティバーンの妹でもある。私を見上げるティーエの面は心配そうで、「すまない」と言えばほっとしたのかティーエの頬が緩んだ。
「まだ病み上がりなのですから、無理は禁物です。でも、少し寄り道していきましょう。果実が生る樹を見付けたんです」
ティーエは鷹の民にしては珍しい程に華奢で、穏やかな人柄だ。肉や魚を好む種族であるというのに、肉よりは魚を、時に鷺の民のように木の実をも好むという。私に合わせてくれているだけなのかもしれないが、食事を共にすることが出来る唯一の相手だ。
フェニキスに来てからというもの、肉や魚を前にすることもだいぶ慣れはしたが、それでも私の身体は血の気あるものには障るようで、何の気も無しにとは居られない。ティバーンの逞しい身体に憧れて、彼の好む肉や魚、それから酒をも口にしてみたが、生きた心地を失った。十日程、生死の境に立たされた程だ。木の実は好きだ。だが、木の実だけではあの逞しい肉体を得るには至らない。何と歯痒い身体なのだろう。
ティーエに連れられ、美味しそうに実る果を一つ捥ぎ取る。真っ赤に染まる果実は私の腹を素直にさせてしまうようだ。先までの疎ましさを吹き飛ばしてくれる。鷹揚に齧り付けば、口内に広がる甘味とすっきりとした酸味に思わず「美味いな」と溢してしまう。
「私も一つ、いただきます」
「どうだ」
「んー! 美味しいですね!」
食文化の違いを思わせないティーエの嬉しそうな姿がとても好ましい。たったそれだけのことに、私は救われていると感じていた。フェニキスの民は皆、私を温かく迎え入れてくれている。寝台から動けぬ父にも手厚く、気遣いが絶えない。居心地が良いのだ。森で生きてきた私が、周りを海で囲われた島で生きている。ティーエを初め、鷹の民は皆、気さくで私の気兼ねをも軽く受け流し私を引き入れてくれる。白鷺であることを、一瞬でも忘れてしまいそうになるのだ。それがどんなに有難いことか。
「ティーエ、感謝する。貴女のおかげで今の私があるのだろう」
「……私もです、リュシオン王子。私も、王子には感謝し足りません」
鷹の民の女性は男性に劣らずの女傑さがある。隣を飛ぶに相応しい逞しさと意志を貫く強かさを兼ね備えている者が多い。生まれつき小柄で、力強く羽ばたけないでいたティーエにとっては、肩身の狭い付き合いの方が多かったのだろう。兄に王であるティバーンを持つのだ。
だが、ティーエは私が察したものとは違った意味で、感謝の言葉を口にした。
「王子はとても変わられました。私はその王子の直向きに努力されるお姿に、勇気付けられました」
「私が、変わった……?」
「はい。とても変わられましたよ」
十年前に比べ、私はとても勇ましくなったとティーエが言う。未だ癒えきってはいない虚弱な身体に苛立ってばかりいるというのに。己を振り返り見ても、気難しくなったとしか思えないのだが、彼女は私を「誇り高き者」と言う。
「お身体はともかくとして、王子は十分、逞しいお人です。危険は確かにありますが、この岬に何度と来られ、今も尚、ご自分で憎しみを忘れないようにお心に刻み付けて……白の王子とは思えない気迫さをお持ちです。私は鷹の民ではありますが、その気概までは持っていません。王子の常に凛としたお姿が、私はとても羨ましくて、でも、だからこそ、私もそう在りたいと思うのです。とても、勇気付けられてます」
「……貴女は優しいな。まるで鷺の民のようだ」
「王子は鷹の民のようです」
第三王子であるこの私に臆せず言うティーエに、私は思わず笑ってしまった。そうか。私は変わったか。と、ティーエの言葉に嬉しさを感じていた。私は、まだ変われるのだ。
「そろそろ戻るか。あまり長居しては懸念を持たせてしまうだろう」
「そうですね」
赤々とした果実を幾つか捥ぎ取り、腕に抱えたまま私達は帰路に着く。見上げれば空も黄昏色を抱いていた。
(20200411)