クリミア奪還より一年。将軍アイクに与えられた執務室は彼の参謀であるセネリオの作業場となっていた。それなりに大きいものの将軍職とは不釣り合いな質素な机の上には復興に欠かせない書類の山が幾つも置かれている。アイクが全てに目を通すのは誰の目から見ても無理なもので、セネリオが目を通し、必要なものを簡潔的にまとめ伝えることで実務をこなしていた。故に、セネリオが居なければ今頃机は書類の山に埋もれていただろう。一軍を預かる身とはいえ実務は専らラグズとの窓口であり、貴族の園でもある宮廷内ではアイクは浮いた存在でもあった。傭兵出であることを気にするアイクではないものの、相手との噛み合わない歯車の補助を担わなければ事も進まない。セネリオは口だけの貴族を冷めた目で眺めつつ、アイクを支えていた。立ち代わり入れ替わりする執務室で黙々と書類の山を捌いていくセネリオの姿は最初こそは訝し気に見えたものだが、一年も経つと見慣れた光景と化す。毎日休む間も無く書類が増えては減り、そしてまた増える。その繰り返しに華奢な参謀の面は崩れない。幼さの残る顔立ちに不釣り合いな仕事ぶりに自然と一目置かれていた。
「セ~ネリオ」
「……あとにしてください」
「それ、半刻前にも聞いた。だから駄目」
セネリオが手にしていた書類が目前から消える。消えた方へ視線を向ければどこか嬉しそうな微笑を見せるエルネが居た。エルネはグレイル傭兵団の仲間であり、家族である。人懐っこい性格ではあるものの、野暮なことには身を引く弁えある人物であり、決して押しが強いというわけではないのだが、時折、辞さない世話焼きな面を見せてくる。それもそのはず。セネリオは仕事にのめり込んで終わるまで手を止めない節があることを懸念したティアマトが世話役としてエルネをセネリオに付けたのだ。セネリオとの距離感を適度に保てる人材は傭兵団内ではエルネを置いて他に居ない。アイクが休めと言ったとしても、区切りの良いところまで終えてからと上手く躱してしまうだろう。その点、エルネはセネリオの冷たい視線にも怯まず、セネリオの言葉にも辞さず、セネリオの威圧を往なしながら休憩に持ち込むことが出来る。
「……分かりました。少しだけ休みます。でも、その書類だけは先に目通しさせてください。早急のもののようですから」
「うん。じゃあ、その間に準備するわね」
セネリオが文句を言わずエルネを傍に置くのは、ひとえに彼女が相手の意思を尊重する人だからだった。
いつものように「休憩時間にしますので退出をお願いいたします」と室内に入る者達を追い出し、茶器と添え菓子を用意するエルネを尻目に、セネリオは肺に溜めた空気をゆっくりと鼻から吐き出した。
「エルネ。こちらの書類をアイクに届けるよう手配をお願いします」
「お茶の後でも構わない?」
「……今直ぐと言って動く気はないのでしょう」
「セネリオが今直ぐと言わないからね。はい、今日は生乳を使ったお菓子だよ。私これ大好き。果物が入っていて、甘酸っぱくて美味しいよね」
窓際にある応対用に備えられた長椅子に腰掛けると、四角い生菓子が手前に出された。ふんわりとした生地と生地の間に果物が挟まれ、上部には生乳を使った白色の濃厚な液体が掛かり、セネリオの喉をこくりと鳴らす。傭兵時代には決して口に出来なかった代物である。その甘味を知ってしまってから、酷く疲れた日には休憩を挟む事も悪くはないと感じていた。だが、今だけである。アイクはクリミアが落ち着き次第、将軍位を返上して傭兵稼業に戻ると言っていた。今だけは与えられるものを素直に受け、仕事に返していこうと決めていた。
「もう一年か」
「一年経っても復興したとは言い難い状況です」
「毎日お疲れさまです、セネリオ」
「……エルネも」
「ふふっ、どうも」
一口の大きさに切り分け口へ運ぶ。口内に広がる甘味がセネリオの肩を少しばかり緩ませ、その落ち着いた様子にエルネは頬を綻ばせた。お茶の控えめな甘さとすっきりとした風味が生菓子によく合い、今だけは仕事が遠くに感じる。いつまで続くか分からなくとも、いつか終りが来る。待ち遠しいようで、でも今を過ごすのも悪くはないと思ってしまう。実に不思議な日々だ。
「私ね、傭兵団に入る前はクリミアとガリアの国境辺りで暮らしていたの」
唐突な真意の見えないエルネの話に、セネリオはお茶を飲む手を止めた。いつものことながら話の種の尽きない彼女に感服する。大した反応も興味も示さないセネリオに対して、変わらずの態度で毎日何かしらの話をするのだ。人付き合いが良いとは言えないことを自覚しているからこそ、セネリオはエルネにそっと耳を傾ける。
テリウス大陸全土を巻き込んだ一年前までの戦乱を経て、セネリオの視野も広がった。アイクの他にも自分の存在を認めてくれる人が居る。そのことに気付かされ、日々の忙しさの中に自分の居場所の温かさを実感していた。傭兵団の皆に、少しづつではあるが自分というものを見せても良いと思えるようになってきた。セネリオにとって目の前で素っ気ないだろう自分に飽きもせず付き合うエルネは、アイクとは違った意味でほっとする存在になりつつあった。
「父が元々、クリミアとガリアを結ぶ伝令だったから国境の詰所を拠点にして、私もそこで暮らしていたの。クリミアからも、ガリアからもあまり良い目で見られなくてね。結構、酷いこともされたんだ。勿論、中には普通に接してくれる人達も居たけどね。でも、それは表面だけのことで仲が良くなることはなかった。そんな時に、アイクと出会ったの」
エルネの父はガリア領から来たグレイル一家を受け入れ、王都への手続きは勿論の事、クリミア領内への居住の協力をしたのだという。以来、アイクとは旧知の仲となり、エルネにとってアイクは初めての友となった。
「父が亡くなって、父の仕事を引き継ぐ人が来てから私の居場所は無くなってしまったのだけど……グレイルさんが私を引き取ってくれて、私は傭兵団の一員になった。……セネリオにまだ話してなかったなーって思って。だから、だからね――」
お茶を一口含み、居住まいを正すエルネの続く言葉を待つ。何が言いたいのか最後まで聞かないと分からないエルネの話し方は、以前までは少しばかり苛立ちともどかしさを感じてはいたものの、最後まで聞けばエルネの真摯な気持ちが伝わってくることを今のセネリオは知っている。急かすこともなく、ただエルネの言葉を待てばエルネがセネリオに微笑んだ。
「ありがとう、セネリオ」
「……何で僕が感謝されるんですか」
「こうして、毎日私に付き合ってくれてるでしょう。話をちゃんと聞いてくれる。一緒にお茶してくれる」
「それは団員の皆も同じだと思いますが」
「うん。でも、セネリオ、皆を見る目が優しくなった」
「そ……れは……そうでしょうか」
「そうだよ」
「それと先の話は噛み合いません」
エルネの目を見て話すことに気恥ずかしさを覚えたセネリオは再び生菓子に手を付ける。尚も笑みを向けてくるエルネの視線から逃れようと別の話題を振ろうと思うものの、咄嗟に思い浮かばず口噤んでしまう。
「噛み合うよ……相容れないと思っていたもの達の証だもの」
そっと囁かれたエルネの言葉に顔を上げれば「そういえばこの生菓子、名前何て言うんだろうね」と再び生菓子に舌鼓を打っていた。
「……エルネは気付いているのですか」
「私はセネリオに出会えてすごく嬉しいし、今こうしてセネリオとお茶してほっと出来る時間がとっても幸せだよ」
相容れないもの達の証。その言葉に、セネリオは太腿に置いていた手を握り締める。エルネはセネリオが印付きであることに気付いていた。本来、異種間同士では子は生まれないのだが、稀にベオクとラグズの間で生まれるその子をベオクは印付きと呼び忌み嫌う。知られていた。その事実をごく当たり前のように突き付けられた。感謝と親しみの籠る言葉と共にエルネの口から告げられた事実が、今のセネリオには焦燥を生むものにしか聞こえなくなっていた。
「――違う。違うよ、セネリオ」
固く握っていたセネリオの手を、横からエルネの両の手が包み込む。目の前に居た筈の彼女が、気付けば直ぐ隣に居た。思わず身を強張らせたセネリオに、エルネは優しく言葉を繋げた。
「私はセネリオにもっと肩の力を抜いて欲しいの。私の肩に寄り掛かって欲しいの! 自分を隠して、相手との距離を量らなくても良いんだよ……せめて、私だけでもって、思って……ごめん、ごめんね。勝手過ぎた」
物心着いた頃から人に愛されることなど一度足りと無かった。教会に拾われてからも手を包み込んでくれる存在になど、出会うことも無かった。グレイル傭兵団には笑顔を向けてくれる仲間が居る。まだ手放さなくて良い、何も恐れることは無い、そうエルネの手からセネリオの胸内へと伝わって来た。
「これでは……食べれません」
「あ、ごめんね」
「……普段から伝えたい部分を先に話してください。エルネは前置きが長過ぎる」
「うん、そうだね」
「僕も」
「え?」
続けそうになった言葉を生菓子と共に飲み込む。人間のように毛嫌うことも、半獣のように無いものとして扱うことも、グレイル傭兵団の団員はしない。「セネリオ」と呼んで、どんな時でも頼りにしてくれる。仲間が居る。こうして隣でいつだって笑顔を向けてくれる存在が居る。
「エルネはもう終わりですか。では、この残りは僕が貰います」
「ああ、だめ、違うの!」
「もう遅いです」
「ああぁ」
エルネを前に自分を隠すことはない。隠す必要など下から無いのだと、エルネに教えられた。今はそれだけでいい。
「……少しだけ、寝ます」
「え、寝る?」
振り返り身を引くエルネの腕を掴み、その肩に頭を凭れさせる。途端に押し黙ったエルネの手が優しく頭を撫で寄せてきた。今まで許されたことの無い距離感に自分らしくもないと思うものの、その心地好さにセネリオの肩は自然と力が抜けていく。
「肩に寄り掛かって欲しいと言ったのはエルネです」
「うん……そうだね」
「……少し、だけですから」
「分かってるよ……おやすみ」
(20200313)