人の世とは儚く侘しいものであるなと感じていたのは何時の頃であったか。幾年と月日を数えては何処と無く虚しさを感じていたあの頃が懐かしくも思う。
 人の子が育ち、やがて妻を娶り、そして子を成す。その子が育ち、他所へ嫁ぎ、子を連れ戻る。その理を知るからこそ、ふと懐かしさを覚えるのだろうか。
 その頃の俺は、美しい刀剣であるからと奇異な目で見られることにも慣れ、人の温かい日常というものよりも人の浅ましさに目を向けるようになっていた。人の浅ましさというものはいつの時代でも変わらぬもので、何故、俺はそのような面白味のないことに意識を向けるのであろうなと思うこともあった。
 人には触れられぬモノであるからなのだろう。俺は三日月宗近だ。人は俺を天下五剣と称し、美しい刀として丁寧に扱う。だが、俺の意識は別のところにある。俺の存在に誰一人として気付かんのだからな。

 あれに出会うまで、俺はそのような侘しさを持ち続けていた。

 いつみと出会い、俺は人の世が乱れていることを知った。時を遡り、変革を起こす輩が居るのだと言う。人の一生を何度と見てきた俺は、一度築かれたものが露と消えることに堪え難い想いがあることを知った。俺は侘しいと感じていた人というものが好きだったのだろう。そして、人というものに憧れてすらいたのだ。いつみと目が合った時の俺の高揚感は未だ忘れることが出来ぬ。
 俺がいつみに出会った頃には、俺の他に数十を数える刀剣が居た。顔知る者も居れば初めて見える者も居る。いつみが持つ具現の力というもので、皆は人として暮らし、いつみの下で人の世の綻びを正そうとしていた。
 俺はそこに連れられてきた。

「三日月さん、水羊羹食べませんか?」
「うむ、良いぞ」

 昼餉を終え半刻程過ぎた頃であろうが、空は暗い。しとしとと降る雨音が心地好いからと縁側で涼んでいた俺にいつみが盆を手に寄ってきた。盆には水羊羹と竹楊枝、それから茶がそれぞれ二つある。二つあるということは、いつみは俺がここで涼んで居ることを知っていたのだろうか。それにしても瑞々しく美しい水羊羹だ。口に入れてなどいないというのに、舌に甘味を思い出すというのは、人として一度口にした時の羊羹の味を舌が覚えているということなのだろうな。ふと、思考を巡らしていると、いつみが突然笑い出した。

「どうした」
「三日月さんの目がきらきらしてて、こどもみたい」

 堪えるよう小さく笑い出すいつみに、俺は口元が綻んでいく。懐かしい。そうだ。人が笑った顔を見るのが、俺は好きであった。それも今は俺に向けて笑ってくれているのだ。この上なく嬉しいものだ。

「先日の大福も良かったが、俺は羊羹が好きでな。何かおかしいか?」
「いいえ、可愛いと思って」
「そうか、可愛いか……」
「嫌でした?」
「いや。いつみは愛いな」

 いつみは愛い。俺が甘味が好きだと分かると、あれやこれやと趣きあるものを持ってくるのだ。人の世乱れる時代へ刀剣を送り込む者であるとは思えぬ穏やかさが、俺は良いと思う。共に暮らし始め一月といったところであるが、その中で知るいつみという人――女性は俺にとって特別な存在になりつつある。刀である俺や他の者達の主であるということもあるのだろうが、それとは別の心持ちがあるのは確かだ。むず痒いとも言うべきか、心地好い擽りに似たもの。俺はそれが嫌ではない。むしろ、好ましい。「愛い」と口にした途端に頬が赤らむのも楽しい。

「三日月さん、そういうことは無闇に言葉にしてはいけないんです!」
「はっはっはっはっ。良きかな良きかな」

 水羊羹に竹楊枝を添え差し出してくるいつみの双眸が空を見る。「今日も暗いですね」と呟くいつみの声音は先よりも幾分落ち着きがあった。少しばかり侘しく思うのは、いつみの面から笑みが失せたからだろう。やはり、人は笑った顔が良い。

「暫くは五月闇が続くのだろうな」
「さつきやみ……?」
「五月雨の降る暗がりのことだ。今日のような空を言う」
「五月闇……」

 何か思うところがあるのだろうか。いつみの目は暗い雨空から一向に離れないでいる。
 人と在る以前よりも、人と在る今の方が、人が何を思い生きているのか分からないと感じる。いつみは何を思い何を見ようとしているのだろうか。ふと思ったことを、俺は口にしていた。いつみにまた怒られてしまうであろうか。

「人は悩むものであろう。何か抱え込んでおるのなら、このじじいに話してみてはどうだ?」
「いえ……まだまだ洗濯物を干すのが大変そうだなって、思っていただけですよ」

 遠くを見ていたいつみの目が俺の視線と搗ち合う。穏やかな雰囲気を見せるものの、どこか――これ以上は聞くな――とでも言われたかのような壁をも感じた。

「……すまんな」
「……謝らないでくださいよ」

 いつみという女性が面白いと感じる。だが、面白いと思う反面、何を思っているのか――思い生きてきたのか、知りたいと思う。俺が長きに渡って見てきた人々のように、いつみにも様々な苦楽があるのだろう。だが、俺は以前のように人が侘しいものだとは思わなくなっていた。

「美味いな」

 小さく頷いたいつみの気配を隣で感じながら、俺は静かに茶を啜った。



泣いてたってわからない角度