そっと唇を近付ける。欲して已まなく濡れた下唇を開き、優しく息を吹き掛け、そして舌先でその熱を確かめる。
「熱っ!」
「あんさんは相変わらず猫舌だなー。ほいよ、追加の品」
細身の店主の掌が策伯の背を豪快に叩き上げる。手元から危うく箸を落としそうになり、策伯は店主を睨み据えるが、店主は気にも留めずに熱々の饅頭を小卓に並べた。少しばかり冷たくなった季節の風に煽られ、饅頭の匂いが策伯の鼻先を擽る。
「まーた妓楼の門見てんのか? よく飽きねえな」
「そりゃあ毎日見たくなくても視界に入っちまうあんたからしてみれば飽きるもんだろうさ」
「何が楽しくて客眺めてんだがな。眺めんなら女にしろよ」
「仕事あるんだろ。俺に構ってないでそっち行きなよ」
「言われなくても分かってら!」
再び叩かれた背が熱くじんわりと痛む。店主の遠ざかる背をじっと睨み付けるが、それも数秒の事。策伯の目は再び店の向かいに建つ妓楼へと向けられた。
幾年か前に、策伯はこの妓楼へ通う不思議な男を見掛けた。それは百年毎に数年の間、度々街へとやってくるのである。策伯は齢幾つであろうか昔に忘れた靖州の少学で教えを担う者である。少学に籍を置く以前は首都である関弓でそれなりの役職に身を置いていたが、ふと気付けば靖州にて教鞭を執っていた。そんな彼の唯一の楽しみは食である。日がな一日立ち歩き、目にするものは書や生徒の筆ばかり。妓楼にでも行ける程の収入があるわけでもない策伯にとって、朝、昼、晩の限られた食事に舌鼓を打つ事が幸せと思える時間でもあった。その憩いの一時に百年毎と決まって視界に入ってくる男を不思議と思わずにはいられなかった。妓楼だけでなく、時折街の至る所で姿を見掛ける事もあり、目にする度に興味が向いてしまう。
「……お、来た」
水浅葱の衣服を纏い、髪は首背で一つに纏め背に流す男。連れる騎獣は騶虞である。変わり映えのしない風貌に、策伯は仙ではと何度目になるか分からない答えを胸内に呟いた。
妓楼は年々華やかに変わり往く。浮き沈みはあるものの、十年、百年と振り返ればその変わり様は大きいものであった。妓楼は民の夢であり、憩いの場である。人が集まれば吐かれるものも大枚となり、そこには一般では得られ難い情報が行き交う。
妓楼の門を潜り行く男の背を見届けた策伯は、最後の一口をゆっくりと咀嚼し、店主に「ごちそうさん」と声を掛けた。
数百年に一度の機会であった。少しばかり背を丸め、面向かうは目前の皿の上の料理であるが、視線だけは上がったまま動けずに居た。それなりの地位在る役人であるか、それとも仙であるか。そんな考えを密かな楽しみにしていた策伯に相席するのは、先日も変わらず妓楼の門へと入ったあの男である。
「美味そうだな。それは何と言う料理だ?」
「……普通の饅頭だ――痛っ」
「普通ったーなんだ、普通って」
男の質問にそろそろと返答した策伯の後頭部に、店主の拳が入った。痛みに両の手で擦り上げると、目前に座す男が豪快に笑う。面白味も感じぬ策伯は目蓋を細め冷ややかに睨むものの、男の笑みは止む事はなかった。
「親父、俺もこれを頼む」
偉丈夫なその男は精悍な顔立ちをしており、同性である策伯の視線でさえも奪う程の色男である。女性は放っては置けないであろう。普段と変わらず視線を男に移したまま饅頭を頬張っていると、男の視線が策伯の視線に重なった。途端、全身に粟が吹く。
「俺をずっと見てきたのだろう。何時からだ? 少なくとも、二百年は俺を見ていただろう」
熱心に息を吹き掛け冷ました筈の饅頭が策伯の唇を熱くする。噛み切ることすら忘れ、男の視線に囚われていた。末席とはいえ仙籍に名が載る策伯は人の保つ雰囲気で何者であるかを察する事が出来た。仙であればそれなりの気配とも言うべきものを察し、民であればそれなりの匂いと言うべきものを嗅する。
「俺は風漢という」
「……策伯。俺があんたを見ていたのは延王が登極された年より五年程経った頃からだ」
「ほう」
民ではない。だが、仙とは言い難い気配に、策伯は恐る恐る己の名を口にした。風漢と名乗る男の体格よりも存在感の大きさに慄いていた。何よりも、全てを知っていると言わんばかりの自信に溢れた隙の無い面である。呑まれる。策伯は呆然と胸中に呟いた。
「お前、俺の下で働く気はないか?」
王たるもの、妓楼通いにて人材を得たり。
男、暫し沈黙の後、首肯する。