あの頃の伊作はとても可愛かった。それがどうしてこんなにも可愛らしさの欠片も無い男に育ってしまったのだろう。伊作だけは可愛らしいままで居て欲しいなあだなんて思っていた事もあった私は、ふと昔を振り返っては重い溜息を吐いた。「栢丸は結構失礼な事を平気で口にするよね。男は大抵、可愛らしくなくなるものだよ」と苦笑を零しながら私の手の甲に綺麗に包帯を巻いていく。
「栢丸ぐらいだよ。可愛いままなのは」
「可愛い言うな。何処が可愛いんだ、全く……」
入学したての頃。あの頃は仙蔵と伊作が女の子に見えて仕方が無かった。私は長次の次に背が高くて、仙蔵、伊作、文次郎、留三郎、小平太の順に小さくなる。とにかく、あの頃は新学期が始まると最初に「久し振り」という言葉じゃなくて、身長ばかり気にして眼飛ばしをし合っていた。といっても、私や長次、仙蔵それから伊作は特に気にはしていなくて。一番気にしていたのは小平太だった。文次郎と留三郎、小平太の三人はとにかく小さかったから。兵太夫が生まれるまで男として育てられていた事もあってか、私は身長の高さのおかげで特に女だと気付かれる事も無く。結構、力もあったから三年生までは何を気にする事も無かった。私が身体的な事を気にしだしたのは三年生も終わる頃だ。それまでは女の子の様な顔立ちをしていた仙蔵も何時の間にか男らしくなっていたし、落とし穴やら塹壕に足を取られていた伊作も私の背を越していて。何だか置いていかれてしまうのではってとても焦った。留三郎なんか、二年生の頃からぐんぐんと背が伸びる様になっていたものだし、小平太の拳を受け止めるのが辛く感じてきたものだ。周りは男らしくなっていく。けれど、私はやっぱり女で。腹に巻く晒しを厚くしたり、男としての面もかなり工夫した。過去にくノたまをも唸らしたどこからどう見ても女性にしか見えない先輩が居たから私もあまり疑われる事も無かったのだけど。それでも、必死だった。
「昔は落とし穴に落ちてはびーびー泣いていたというのにな」
「僕はびーびーだなんて泣いてない」
「私の名を叫んでいたじゃないか。鼻声で、泣きじゃくって」
「……それは、一年生の頃の話だろう」
「二年生の頃もまだ泣いてた――痛っ」
からかい混じりに過去を口にすれば、むすっとした面の伊作が私の手の甲に親指の腹を押し付けてきた。ぐっと握られる強さに思わず顔を顰めてしまう。保健委員長のくせにこれは酷い仕打ちだと思うのだけど。
「あの頃の栢丸は僕に冷たかったね」
「い組とは組だったからな。それに、付き纏われてれば誰でも冷たくなるものだと思うけど?」
顔見知りになった途端、伊作は私に付き纏う様になった。姿を見付ければ可愛らしい笑顔で声を掛けてきて、何処へ行っても伊作が引っ付いてきた。私の背を追う様に引っ付いて来る伊作は私が躱す落とし穴に落ちたりして、最初の内はそのまま放置していたけれど、尚も懸命に私に付いて来るものだから邪険に扱う事が出来なくなってきて、伊作が落ちる度に手を差し伸べて。落ちる前に落とし穴があると教えてやったり。でも、結局落ちてしまうのだけど。ある意味、私が一番伊作の情けない姿を見てきたのではないのかなとさえ思う。同室の留三郎はどうしたと何度と思った。けれど、当時は文次郎と喧嘩ばかりしていたから、むしろ留三郎は文次郎と並んで伊作に世話になっていた方だった。懐かしいなあ。まあ、今もあまり変わらないのだけど。
「情けない事だけど、でも……あの事があったから栢丸が僕に優しくしてくれるようになったんだよなあ」
「あれは……まあ、うん」
付き纏われるのは正直好きじゃない。わたしの後ろを追って良いのは兵太夫だけ。わたしの可愛い弟の兵太夫だけだというのに、わたしの後ろをにこにこ顔で纏わり付いて来るのはこの――善法寺伊作。泣き虫で情けなくて、わたしよりも女の子みたいで。は組のくせに、何度振り切っても何時の間にか笑顔で近寄って来て、顔を見るだけで嫌だなって思う。だから、置いてきた。ずっと付いて来るものだから裏山に行って振り切って来た。けれど。
「善法寺伊作ー! 何処だー!」
今は一寸――ううん、かなり後悔してる。わたしが裏山に善法寺を置いてきたのはお昼の事だ。午後の授業が無い今日は皆自由に遊んでる。だから、夕餉の席であの善法寺と同じ組の食満に「伊作知らないか?」と聞かれて焦った。「あいつ、夕餉の後に保健委員会があるというのに何処に行ったんだ」と苛立った食満から、善法寺の捜索願が出されている事を知った。まだ空は明るい。けれど、直ぐに暗くなってしまうだろう。そう思ったら、手に受け取ったばかりの夕餉を食満に渡していた。外出届けを出して、裏山まで走って。わたしは善法寺を置いてきてしまった辺りをくまなく探した。でも、見付からない。
「善法寺ー! 返事しろー! 善法寺伊作ー!」
声を張り上げて、何度と叫んだ。次第に暗くなっていく山の中で喉が締め付けられいく。泣きそうになる声を何とか押し留めて、力一杯「伊作ー! 何処なんだー!」と叫んだ。そうしたら、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。声のした方へ走って、草木がわたしの腕や頬に傷を付けるけれど、構わず走って。ようやくと善法寺を見付けた。石が均等に置かれた中央の穴に善法寺が涙で赤い頬を濡らしてわたしを見上げて「栢丸」とわたしの名前を呼んで。ほっとした。手を差し伸べると土と涙に塗れた手が掴んできて、ぐっと力を込めて重心を使って引き上げた。
「栢丸っ、ぼく、ぼくねっ、栢丸に、嫌われてるんじゃって」
引き上げたと同時に善法寺に抱き着かれて、わたしはその場で尻餅を着いてしまった。わたしの肩口に擦り付いてきて、背に回された手がわたしの装束をぎゅっと握っていて。耳元で嗚咽交じりに何度とわたしの名前を呼んで。まるでわたしが新学期に家を出て行く時に見る兵太夫みたいで、思わず善法寺を抱き締め返してその頭によしよしと手を宛がっていた。行かないでと、真っ赤な頬が痛んでしまうのではと思うくらいに涙で濡らして。本当に兵太夫みたいだ。そう思った途端、わたしも喉を番えさせて「ごめんっ」と口にしていた。
「善法寺、どうした?」
「え、ううん。何でもない」
泣き止んだ善法寺の手を取りながら、既に真っ暗な山を下っていく。足元に注意しながら下る山はあと少しで終わる。既に大川学園の灯りを視界に捉えているわたし達には怖いという感情も無くて。唯、善法寺を置いていく事だけはもうしたくないと思ったわたしの手が善法寺の手をぎゅっと握り締める。
「……うーやっぱり言う!」
「な、何だよ、だから」
「ぼくを探してくれていた時、名前で呼んでくれたよね!」
「善法寺って呼んでたけど」
「でも、最後、確かに伊作って呼んでくれた!」
「そ、そうだっけ?」
足の歩みを止めた善法寺に向き直ると、善法寺は先とは全く違った真っ直ぐな目でわたしを見詰めてきた。睨まれたわけでもないのに、何処か凄みがあって思わず口を閉ざしてしまう。
「伊作って呼んで」
「……別に良いけど」
「はい、じゃあ呼んで」
「は?」
「呼んでみてよ」
「な゛っ、何で」
「呼んでくれるんでしょ?」
「よ、呼ぶけど、別に今じゃなくったって……その内呼ぶよ」
「駄目! 今! ほら、早く!」
「い、嫌だっ」
「あっ、栢丸!」
「学園はもうそこなんだから、行くぞ!」
「ああっ、待ってよ! ぼくの名前呼んでってば!」
「あの後、大変だったなあ」
「うっ」
「先輩や先生には怒られるし、留三郎には拳骨で殴られるし、栢丸はなかなか僕の名前を呼んでくれないし。ね?」
「……伊作があんまりにもしつこいから反対に言うのが恥ずかしく思えたんだよ」
「僕の所為にするのか」
「いっ、痛いっ、痛いって、伊作!」
私の手は未だ伊作の手中にあるので強気な言葉は口に出来ない。本当に可愛くない。あの頃の伊作はとっても可愛かったのに。そう溜息に乗せて口にすると、伊作が「可愛くなくて良いの」とあの頃のままの笑顔で言うものだから、私は思わず「まあ……時々は可愛いかな」と口にしてしまって、また痛い目に遭うのであった。