慣れた書の匂いに混じる墨の匂いに、長次は目を細めた。日は既に沈み、空には満月が忍ぶ者を休ませようと躍り出ていた。
「長次、これ終わった」
「次はこっちだ」
「うん」
図書室には長次の他、文机に並べた書物を修補するこのは以外、居ない。学級委員長委員会の委員長であるこのはは字の美しさを買われ、長次が一年生である頃から度々修補作業に借り出されていた。図書委員よりも書物の扱いに詳しく、とても丁寧であり、図書委員の間では図書委員長の右腕とも称される程。書を写す様は静を語り、書に向かう相貌は凛と澄まされていた。
押さえ留めていた書の紐を解き、このはから手渡された写しを合わせる。先月より始めた修補が一つ終えると、長次は次の書の写しへ入るこのはの横顔を見詰めた。
「なあに?」
「……いや」
「そう」
作業を始め一刻程経ったというのに、紙面へ向かうこのはの顔は長次へ向き直る事は無く、筆を持つ手も休まる事は無い。苦を顔にせず、黙々と作業と向き合うこのはに、何と声を掛ければ良いものか逡巡してしまう。修補に呼べば笑顔で応じ、筆を渡せばそつが無く。既に図書委員と化している様に、長次は何とも言い難い気持ちを募らせた。
子の刻も過ぎた頃合いであり、図書室に並び座すのは男と女であるというのに、このはは目前の文机とばかり相手をする。修補の手伝いを頼んだのは紛れも無く長次自身であり、痛んだ書を早々に差し替えたい気持ちもある。だが、長次としては友人ではあるが男と女であるという事に察して欲しいと思っていた。
紐通し固く締め、はらりと表紙の背を捲る。軽くはらりはらりと紙面を送る度にこのはの手に因って綴られた流麗な字が長次の目に入ってきた。
「一月」
「ひとつき?」
「ああ。このはが書の写しを完成させるに掛かった日数は、大体一月だ」
「一日中、書き続けていたらどれくらいの日数で終わるかな」
「さあな」
頬を綻ばせながら筆先をそっと浮かせ舞うこのはの顔を見遣り、長次は一つ息を吐いた後、立ち上がった。室の隅に置いたままの包みを開き、手にする。
「このは」
「何、どうかした?」
「このは」
「うん?」
二回目にしてようやくと顔を上げたこのはへと、長次は手にしたものを差し出した。
「……長次」
長次の手に乗るは山道の手前にある茶屋の美味しい団子だった。このはがよく好む団子である。笑みを零し団子へ手を伸ばすかと思いきや、このはは喜ぶどころか、眉を頼り無く下げつつ長次の額へ手を伸ばしてきた。突然の事に、長次は瞠目した。
「長次、熱あるの?」
「……俺は平熱だ」
「本当に?」
「ああ」
このはの手を掴み、真っ直ぐと向き合う。だが、このはは長次の言葉に未だ疑う目を向けたままだった。
「あれ」
筆を置き空いた手が示すのは、室の内戸に貼られた紙。『飲食厳禁』と書かれたその紙を目にし、長次は絶句する。
「っふふ、ははっ」
図書委員――それも委員長である長次の失態に、このはは吹き出した。繋がれたままの長次の手に力が込められ、このはの手を少しばかり痛め付ける。このはが立ち上がると同時に離れた手に、長次は名残惜しさを感じたが、紙へ向かい利き手をゆっくり振り上げたこのはの背に目を奪われた。上から下へ真っ直ぐと振り下ろされる腕。手には筆が握られており、紙面には直線が描かれていた。
振り向き笑みを見せるこのはに、長次は苦笑せざるを得なかった。
「長次は聡いのか鈍いのか分からないわね」
「……お前に言われたくはないな」
「長次は、私に休憩しろって言いたかったのでしょう? 一言、口で言えば良いだけなのに、こんな滅多にしない失態までしちゃって」
このはは聡い。だが。
「このはは利に聡いな」
「褒め言葉として受け取っておくわ。それに、あれ、少し破れてるから、書き直しに丁度良いでしょう?」
「……俺の好意もその聡さで見抜いてくれれば良いのだが」
「見抜いたからこそ、飲食厳禁に取消線引いてあげたのに」
「違う……だが、もう良い。食べろ」
一串、手にし、このはの口元へ宛がってやれば、一つ目の団子にこのはの白い歯が噛み付く。その様が何とも愛らしくも憎らしく見え、長次の眉間に皺が寄った。
「変な長次」
「夜中の飲食に付き合うくノたまも十分変だろう」
「長次のあまりにも不器用な心遣いに応えてあげているのは誰かな?」
「お前だ、このは」
このはの少しばかり意地の悪い笑みを受け、長次は小さく笑んだ。